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尖沙西にて

スラム街とは反対側にある少し大きな病院。


長い髪を揺らし、少し駆け足気味で撫で肩が病院の中へ入っていった。


…エイジ、君は何をやってるんだ!?


アンは1035室を案内してくれた受付スタッフに足早に会釈をして、エレベーターにかけ乗った。


息が苦しい。電話を受けてから、すべての移動がほぼ駆け足状態である。一分一秒がこんなにも長く感じたことは多分、ない。


アン

「…ヒスイ!?ルチル!?」


ベッドでガーガーといびきをかいているセキエイの隣には似合わない、ビービーと大泣きする子ども2人。アンは子ども2人を抱きかかえた。


セキエイ

「…あ?うーん…」


アン

「エイジ!」


ヒスイ

「パパー!!」


セキエイ

「…」


泣き喚く3人をよそに、セキエイはゆっくりと目を開けて、顔を横に向けた。


何やってんだ俺。確かスラム街であのが…?あ、あれ?


セキエイは目を擦った。気がつけば、現在にタイムスリップしていた。夢で見た少女が急に大人になって、セキエイの顔を覗き込んでいた。今度は逆に、セキエイが抱えていたはずの少女が子ども2人を抱えていた。


ルチル

「…ごめんなさい。俺が悪いんです。」


鼻声ですすりながら、ルチルはアンからスルッと離れてセキエイの胸の上に顔をくっつけて泣き喚いた。


あれ、俺どうしたんだっけ?…あっそうか。こいつと一緒にスラム街にいて、そのときに車が突っ込んできて…


ヒスイ

「パパ、痛くないの?大丈夫?」


セキエイ

「今は平気。」


セキエイは点滴の針が刺さった腕を伸ばし、ヒスイの頭の上に置いた。


心配をする3人をよそに、セキエイは体にまるで痛みを感じていなかったことに、首を傾げていた。


少ししてアンは、病院のスタッフに呼ばれて病室を出た。


医師

「奥様ですか?」


アンを呼んだのは50代くらいの、小太りの眼鏡をかけた女医だった。


アン

「はい、主人がお世話になっております。」


アンは女医に促されて別室に向かった。


アンが呼ばれたのは、歩いて1分もしないところにある診察室だった。セキエイの勤めている病院よりも古く、規模が小さいためか、病院なのに肝心な清潔感はさほど感じられなかった。


女医

「ちょっと不思議に思いましてね」


女医は矢継ぎ早に話を進めた。


アン

「はい…どうなのですか、主人は」


女医

「いやぁ…」


女医はアンではなく、カルテを見ながら顔を顰めた。その表情は、アンを不穏にさせるものであった。



女医

「あれだけ派手な事故で、かすり傷程度なんです。一応明日再検査を行いますが…これは初めてですね…」


アンの心配は、良い意味で期待を裏切られた。


一方、病室では。


ルチル

「ごめんなさい、本当に、ごめんなさい…」


ルチルはセキエイにしがみついたまま、雨なら土砂降りで洪水警報が出るだろう、大荒れだった。


セキエイ

「別にお前のせいじゃねーよ」


セキエイはそう言うと、寝転がったままふわぁっと大あくびをした。これじゃ本気で言っているのかわからない。だが、そんなことを病人に言っても…である。


セキエイ

「えーと、まぁ、とりあえず、泣くな。」


個室っぽいな。セキエイの頭はもう、全脳細胞のうちのわずか数パーセントしか稼働していなかった。アイボリー色の天井の灰色のシミだけをただ、その目に捉えていた。本当は寝転がりたいわけでもなかったのに、体はそれを許さなかった。セキエイの視界は次第にくらみ、ヒスイとルチルの言葉もうまく聞き取れなくなっていった。


セキエイは、目を閉じた。


アン

「ごめんね、待たせて。」


アンは紙パックのジュースを2つ持って、セキエイ達のいる1035号室へ戻った。泣き虫2人は、まだ目と鼻のまわりを真っ赤にさせて鼻をすすっていた。


ヒスイ

「パパ、いい子いい子してくれたよ!」


そう言うとヒスイはアンに飛びついた。


アン

「本当?…まぁ、寝かせておいてあげて。さっき先生と話したら、元気みたいだから。ほら、2人とも、もう大丈夫だ。」


アンは2人を宥めると、ジュースを渡した。


アン

「…落ち着いたら、2人とも戻ろうか。ルチル、まずは君を家まで送っていくよ。ヒスイは…」


ヒスイ

「ダメだよ。先に僕を送って。」


アン、ルチル

「?」


ヒスイは顔を曇らせて、そうキッパリと言った。


アン

「どうしてだ、ヒスイ?ルチルの家は駅の反対側なんだ。すぐそば…」


ヒスイ

「嫌な予感がするんだ、本当だよ?駅の反対側は行っちゃダメだよ。たくさんのひとが押しかけて、騒動を起こすよ。何となくわかるんだ。」


…何を言い始めるんだ?ルチルは涙を拭いて首を捻ったが、アンが意外と素直にヒスイの言うことに応じたのは、ルチルは少し驚いた。


アン

「…そうか。わかったよ。ヒスイ、今日は学校を休みなさい。ママが連絡するから。パパが寝てるから、静かに待ってて。大きな声は出さないで。すぐ戻ってくるから。」


アンはそう言うと、ふたたび病室を出た。


アンがいなくなって、ルチルとヒスイ、そしてスヤスヤと赤ん坊のように大人しく眠るセキエイの3人だけになった。


ヒスイとルチルは、もう泣きなんでいた。


ルチル

「…本当に家族だったんだ」


先に囁き声で話し始めたのは、ルチルの方だった。ルチルは紙パックにストローを挿した。


ヒスイ

「ママのこと、知ってたんだ。」


ルチル

「まぁな」


そう言うとルチルはジュースを飲みながらヒスイを眺めた。


こいつボンボンか。綺麗な聖太子学園の制服を見ながらルチルは思った。綾港と奥門では有名な学校で、ルチルも知っていた。根っからのお坊ちゃんの行く学校、ルチルが1番嫌いなタイプの人間である。


ヒスイ

「いつから知ってたの?」


しかし、ルチルはヒスイにさほど嫌悪感は抱かなかった。ツンケンしていなく、物腰は柔らかくて話しやすかったからだ。


ルチル

「1年前だ。俺は奥門の親戚の家にいたんだ。具合が悪くて倒れていた俺を、助けてくれた。そこから。」


ルチルはもう一度、ヒスイを見た。


ルチル

「子どもがいるのは聞いてた。でも、顔までは知らなかった。」


ヒスイ

「…僕もママに会ったのは久しぶりだよ。具合が悪いってパパから聞いていたから。」


ルチル

「そうかもしれない。たくさん薬を飲んでいたから。」


ルチルはアンが、たくさんの錠剤を持っていたのを思い出した。


…誰に似たんだろうな。ルチルはヒスイを眺めていた。見た目は2人に似てる。でも、2人ともこんなにおっとりしていない。


ルチル

「…そういえば」


ヒスイ

「?」


ヒスイはジュースを飲みながらルチルを眺めた。その大きくて紫色の瞳は、ヒスイとアンが親子であることを物語っていた。


ルチル

「さっきの話はなんだ?騒動が起こるって…」


ルチルは半信半疑でヒスイを尋ねた。ヒスイは少し顔を引きつらせた。


ヒスイ

「ねぇ、これから話すこと、信じてくれるかな?」


ルチル

「信じるも何も、言わなきゃわかんねーだろ。」


ヒスイ

「そうだけどさ…」


ヒスイは苦笑いをした。


ヒスイは軽く咳払いをして、ゆっくり話し始めた。

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