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尖砂西のスラム街

ヒスイ

「ママ、次はいつ来てくれるの?」


セキエイ

「来週また会える。わかったから泣くな。」


いくら天才と言われていても、やはりヒスイはまだまだ甘えたい盛りの子どもだった。


ヒスイ

「じゃあ今度は僕が、奥門へ行ってもいい?」


セキエイ

「あー、パスポート作らないとな。」


アン

「もちろんさ。ヒスイ、行ってらっしゃい。」


校門前にいるアンはしゃがんで、ヒスイの両肩にポンと手を置いた。ヒスイが学校の中へと駆けていく間は、見えなくなるまで手を振りながら。


セキエイ

「今は奥門のどこにいるんだ?」


ヒスイの姿が見えなくなってから、セキエイはアンの耳元で囁いた。


アン

「奥門の空港とフェリー乗り場から車ですぐの、港北街コンベイジーというところ。」


セキエイ

「ヒェ~、金持ちだな。」


セキエイは目をパチパチさせた。そこは100万ドルといわれる綾港の夜景が見渡せる、超高層マンション街だったからだ。


セキエイはアンを、押入れで寝る家に泊めたことを激しく後悔した。


これはヒスイを連れて行っちゃダメなやつや。あいつ帰らなくなるぞ。結局、いつまでもセキエイはアンに頭があがらないでいた。



アンはその後、セキエイとともに近くの駅の反対側へ向かうため、駅のなかにある通路のそばの古い螺旋階段をくだった。ついた時には目が回って、少しクラクラしそうだったが、なんとか繁華街の大通り沿いを歩いた。


しばらくして、ようやく長い列を見つけた。バス停ならぬ路面電車の停車場である。朝早くから憂いを帯びた表情で、人々は職場へ向かっていた。


アンはセキエイと一緒に路面電車に乗ってフェリー乗り場に向かい、セキエイはアンを見送った後、その足でそのまま病院に向かった。


セキエイ

「おはようございます…あれ」


まだ診察時間になっていないが、もう外で見覚えのある後ろ姿があった。


セキエイ

「お前まだ早いぞ。時計ないのか?」


ルチル

「うわぁ!びっくりさせんなよ!」


うるせーなー。こっちがびっくりするわ。セキエイは両手でそっと耳を塞いだ。


セキエイ

「んで、まだどっか悪いのか。病院なんか頻繁に来ない方がいいぞ。」


金儲けする気ねーだろ、この医者。ルチルは思った。


ルチル

「金を払いにきた。」


ルチルは札を握りしめていた右手を、思いっきりまっすぐに伸ばしてセキエイに突き出した。


セキエイ

「いいよ別に。そんなもん。」


ルチル

「お前に借りを作るつもりはねーよ!かあちゃんが俺の保険証を持ってたんだ、これでちったぁ安くなんだろ」


ルチルは伸ばした手を引っ込めようとはしなかった。


いや、すでに借りがありまくりなんだけど。セキエイはルチルから保険証と札を受け取った。


セキエイ

「お前さ、ルチルじゃなくて、リュー・チンリューって名前なんだけど」


セキエイがルチルの保険証をさっと読み上げると、ルチルは途端に顔を真っ赤にして歯をぐっと噛み締めた。


ルチル

「…字が読めなくて悪かったなぁ!お前みたいな大学まで出てる甘ちゃんに、俺のことがわかってたまるかよ!」


セキエイ

「わからなくてもいいんだけど。」


ルチル

「うるさいうるさい!」


お前が1番うるせーよ。セキエイは思わず言いかけた。なんで俺の周りは変なのばっかりなんだよ。セキエイはあくびとため息が混ざった謎のボヤキを吐いた。


まぁ、自分が1番変なやつと思われていることに、気がついていないだけ幸せなのかもしれないが…


セキエイ

「アンにはペコペコなくせに、なんで俺にはそんなにツンケンしてるんだよ。ほれ、今計算してくるから待ってな。」


セキエイは保険証と札を持って、受付のスタッフに渡した。


…どうやらこの一言が余計だったらしい…


ルチル

「アンデシン様を気安く呼ぶな、師匠だか何だか知らんが…」


セキエイ

「いーだろ、あいつ俺の嫁だぞ」


ルチル

「妄想も大概にしろよ」


セキエイ

「妄想じゃねーよ、マジだよ。」


ルチル

「嘘だ、信じないね!フン!」


と、そっぽを向くと、ルチルは駆け足でその場から去って行った。


セキエイ

「あ、おい!保険証忘れてるぞ!」


セキエイは仕方なくルチルを追いかけた。


セキエイ

「…あの…バカ…くそ」


逃げ足が速すぎるだろ。セキエイは保険証と領収書とおつり、明細書を持ったまま舌打ちをした。


仕方ねーな。久しぶりにやるか。セキエイは目を閉じた。


一方。ルチルはつっかけのサンダルを履いた足でバッタのように、スラム街への道を駆け抜けていった。


ルチル

「なめんなよ、あのヤロー…俺は大人なんて、だいき…あたっ!!」


交通事故でいえば、前方不注意である。ルチルは誰かにぶつかって、豪快にひっくり返った。


セキエイ

「随分と遅いこと。」


ルチル

「…ってて…」


ルチルはうつ伏せの状態から、上半身のみをゆっくりと起こし、女の子座りをした。


ルチル

「げっ!」


顔をあげたルチルは、パンドラの箱を開けたかのように顔を歪ませた。


セキエイ

「忘れ物だ。持ってけ。お前遅いな。」


さっきまでルチルの逃げ足が速いと言っていたくせに…と冗談はさておき、セキエイはしゃがんで、ルチルに保険証等を差し出した。


ルチル

「んな、バカな。俺に追いつくやつなんて、滅多にいないぞ?」


そう言いつつ、ルチルはセキエイから保険証等をひったくった。


セキエイ

「ありがとうぐらい言え。俺の子がそんな態度なら引っ叩くわ。」


そう言うと、セキエイはゆっくりと体を起こした。


セキエイ

「なぜお前はそんなに人を信用しない。来い。」


セキエイは座ったままのルチルの体を持ち上げ、お姫様抱っこした。


ルチル

「あ、おい、何だよ!どこへ行く…って、おい…」


セキエイに抱っこされたまま、ルチルは大人しく辺りを見回した。


止まってる。何もかもが。ビルについた時計も、チカチカ光る看板も、歩道を練り歩くたくさんの人達も、もくもくと排気ガスを出す車も…


まるで、世界でルチルとセキエイの2人しかいなくなってしまったかのようだ。


ルチル

「ふえぇぇぇぇ…」


セキエイ

「ま、時は止まった。ちょっくら散歩でもしようぜ。」


お転婆娘を抱えたまま、セキエイはゆっくりと歩き始めた。


セキエイ

「お前の家はどこだ。」


ルチル

「尖沙西。」


…やっぱりスラム街か。セキエイは思った。大体どの辺りに住んでいるかで、その人のお財布状況がわかってしまうのが綾港と奥門に暮らす人達の怖いところであった。


ルチルが暮らす尖沙西は、駅前はごく普通の住宅地なのだが、1本道を外れてしまえばスリやひったくり、恐喝が横行するトタン屋根の町だった。


きたねー町だ。かつてセキエイが現役の殺し屋の頃、政府に頼まれあの辺りの盗賊をアンと2人で滅多にしたのを覚えていた。正直あまり関わりたくない町だ。


セキエイ

「ガキが1人でふらつくようなところじゃねぇな。」


ルチル

「仕方ないだろ?俺の家はそこなんだ、ふらつくしかないだろ!」


セキエイ

「1人で、っつってんの。お前の親は何してんだよ?」


セキエイが尋ねると、ルチルはあまり言いたくなさげにふー。とため息をついた。


ルチル

「あまり言いたくないな。」


セキエイ

「じゃあ、聞かない。」


ルチル

「?」


ルチルは素っ頓狂な顔をして、セキエイを見上げた。


ルチル

「お前、変わってるな。」


セキエイ

「は?何で?」


ルチルは、セキエイの切れ長眼を食い入るように見つめ、つぶやいた。


ルチル

「何だかんだいって、俺のことを気遣ってくれてる。」


セキエイ

「…女のワガママは慣れてっから。」


ルチル

「女もクソもあっかよ。一色単にまとめんな。」


まーこいつは可愛くねーなー。セキエイは口角を左斜め上に引き上げながら、スラム街の入り口を通過した。


古い油まみれの壁でできた飲食店、むき出しの電線、黒いゴミ袋に溢れた歩道、ビニールシートに囲まれた狭い狭い家。ここに何人も住んでいるから驚きだ。アメリカの田舎に住む人なら発狂するんだろうな。アメリカ知らねーけど。セキエイはルチルの顔よりも、町並みを見回しながら歩いていた。夏場は臭いなんてもんじゃないんだろうな…セキエイは思った。


ルチル

「別に、俺は男になりたいわけじゃないけど…」


セキエイ

「ふーんそうなの。」


セキエイは適当に頷いた。面倒臭くて聞いていないんだろう、多分。ハエだらけじゃん、あー白衣替えなきゃダメだなーなんて思っているくらいなのだから。


ルチル

「俺は男の方が嫌いだ。特に、大人の男。」


セキエイ

「?」


さすがにこの一言に、セキエイは反応した。


2人が歩くのはスラム街のど真ん中。


セキエイ

「よいしょっと。」


セキエイは観光客らしき欧米人のデニムのポケットから奪われんとしていた小銭入れを、ポケットの深くに押し込んだ。ここは、こういう場所である。


セキエイ

「お前みたいな、手癖の悪いガキばかりだな。」


セキエイは小銭入れから手を離して、再び歩き出した。


ルチル

「なんで助ける。やられる方が悪いんだ。」


セキエイ

「助けたいから。」


セキエイはルチルを連れて、さらにスラム街の奥地に入っていった。今にも倒壊しそうな黒ずんだビル、そこにはロープがぶら下がり洗濯物がかかっている。ここに住めるような人達はまだ裕福な方だ。雨風を凌げるんだから。


ルチル

「変なやつだ。お前はアンデシン様の、何なんだ?」


ルチルは相も変わらずブー垂れたままつぶやく。こいつの胸元、あったけーな。良い匂いするし。ちゃっかりルチルはセキエイの腕の中を満喫していた。


セキエイ

「だからアンは俺の嫁だってば。ちょっと待てって。」


ルチル

「?」


セキエイは一旦足を止め、ルチルをゆっくりと下ろした。


その次の瞬間。セキエイの耳元で、鼓膜をぶち破るような特大のクラクションが鳴り響いた。


セキエイ

「ぐぅわぁぁぁぁ!!!あぶねぇ!!!」


セキエイは咄嗟にルチルを歩道の奥に突き飛ばした。


ルチル

「お、おい!!!」


ガッシャーン!という高いところから物を落としたような激しい音が辺りに響いた。ルチルが顔を上げてセキエイを見た時は、壁をぶち破られて崩れ落ちかけた廃墟のすぐそばの、ゴミ捨て場に横たわっていた。


一瞬だけ物凄いハリケーンが訪れたかのように、そのブロックには古いミニバンが突っ込み、パラパラと土ボコリが舞っている。


通行人

「ちょっと!!大丈夫かい!!」


セキエイの元に、駆け足で野次馬たちが集まって、あっという間にその姿はルチルの視界からは見えなくなってしまった。


それでもルチルがコンマ数秒だけ見えたセキエイは、長い睫毛を白い肌に浮かせて、青ざめた顔で気を失っていた。


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