関さん家の面倒くさい話
赤ちゃん返りというのは、本当にあるようだ。その日セキエイは、普段と様子の違うヒスイを見ることになった。
やっぱり、母親には敵わないのか。この日ヒスイはしばしアンにベッタリで、片時も離れようとはしなかった。
…父親っつーのは、いつも憎まれ役なのか。
セキエイはいつもとはまるで違う顔を見せるヒスイを、三歩下がった位置から見ていた。
ヒスイ
「今日は僕がママと寝るから!」
ヒスイはアンの折れそうな細いウエストに掴まりながら、セキエイを横目で見ていた。
セキエイ
「はいはい、じゃ奥門へどうぞ。」
セキエイはヒスイをからかった。
楽しい時間はどうしてこうも早いのだろうか。時計の針は無情にも綾港の人々を急かす。電車は次第に本数が少なくなっていき、人々の歩く方向も変わっていく。それは3人も例外ではなかった。
ヒスイはきっと、自分が眠りについたことに気がつかなかったのだろう。知らぬ間に、スースーと寝息を立て始めていた。
アン
「エイジ、ヒスイは寝たから。」
セキエイは台所のそばでコーヒーを飲んでいた。寝る前にそんなの飲んだら、寝つき悪くならない?アンは台所のそばの椅子に座るセキエイを見て思った。
セキエイ
「アンも寝れば?明日何時だ?起こすけど」
アン
「僕は平気だ。明日はヒスイが学校に行くまでは、綾港にいていいか?」
アンはセキエイの向かいの椅子を引っ張り出して、隣に座った。
セキエイ
「どうぞ。コーヒー飲むか?」
アン
「ありがとう。でも、いい。…エイジ。ヒスイの寝てるうちに、僕はどうしても話しておきたいことがあるんだ。」
…やっぱりそうか。セキエイは細い目を更に細め、アンをじっと見た。
セキエイ
「俺はもう戻らないぞ。力も使わない。」
アン
「…」
アンは口角を下げて口を閉じた。けれども、セキエイの予想は半分は当たったが、半分は外れていた。
アン
「それがヒスイのためでも、か?」
セキエイ
「どういうことだ?」
セキエイは、眉間に皺を寄せた。
アン
「僕の元に依頼が来た」
…やっぱりな。セキエイは大して驚きもしなかった。誰かがアンに情報を流したんだろ。セキエイはふっと一息ついた。
セキエイ
「まず、その話を俺にしていいのか?すべきではないだろ」
アン
「あぁ。すべきではないな。僕は断ってるけどね。」
アンはテーブルに頬杖をついて、上目遣いでセキエイを見つめた。
アン
「ただ依頼は君ではなく、ヒスイなんだ。そうなると話が違うだろ?」
セキエイ
「…どうしてだ」
セキエイは瞬時にして、くわっと瞳孔を見開いた。
アン
「断っているが相手に粘られている」
セキエイ
「それは相手が、アンがヒスイの母親であることを知ってて、敢えて揺さぶっているんじゃねーのか?」
セキエイは言うべきか躊躇い、一瞬顔を顰めたが、
セキエイ
「…昔の、アンみたいに。」
と、口に出した。
やっぱりな。アン、すまん。
セキエイはこの話を口に出したことを後悔した。蛇口がひねられたかのように、アンの目元にブワッと涙が浮かんだ。
アン
「…僕をあの女と一緒にしないでほしい、なのに、エイジ…」
セキエイ
「…すまん。」
アンは瞳からぽろぽろと涙をこぼしながら言った。
アン
「どうして僕を置き去りにしたんだ。2年も僕からヒスイを奪って。これじゃ、僕もエイジも、やってることが自分達の親と同じじゃないか!」
セキエイ
「それは違う!!」
セキエイは咄嗟に声を張り上げた。あっ、すまん、とものの数秒で冷静に戻ったが…
アン
「…ヒスイは起きない。大丈夫だ。僕がヒスイの動きを止めてるから。」
アンは手の甲で目をぬぐいながらつぶやいた。
アン
「…でも、同じだろ。僕もエイジも…僕は自分を捨てて、女優の道を優先した母さんを許さないよ。エイジだってそうだろ?言い方は悪いが、君の父さんは母さんを、結果的には引き離したじゃないか。」
セキエイ
「…それを言われちゃ…アンの言うとおりだ」
セキエイはコーヒーの入ったマグカップをテーブルに置き、両手のひらに顔を埋めた。
…じゃあ、どうすれば良かったんだよ…セキエイは頭を抱えた。
セキエイ
「…お前を守るには、それしかなかったんだよ」
アン
「…こんなことを言うのはあれだけど、エイジを恨んでいるわけじゃない。ただ…理由を君の口から聞きたかったよ」
セキエイ
「言えるなら、最初から記憶を消さねーよ。ヒスイの記憶も俺が操作したんだ。悪いけどこれは、墓場まで持っていくからな」
セキエイは両手のひらから顔を離した。椅子の背もたれに傷だらけの背中を貼り付け、肺の中の空気をすべて外へ吐き出した。コーヒーはまだ冷えていない。黄緑色のマグカップから、白い湯気を出していた。
アン
「もうあとの祭りさ。それは無駄だよ、エイジ。」
セキエイ
「どうしてだ」
アンは、今までで1番顔を強張らせ、セキエイに言った。
アン
「もう僕は知ってるよ。ヒスイが教えてくれたから。ヒスイも僕たちの力を引いてるからね。君の子ども騙しは、もう破られているよ。」
セキエイ
「………なっ………」
凍りついたセキエイなどお構いなく、アンは話を続けた。
天井からぶら下がった電球の青白い光が、2人が腕を支える薄茶色の木製テーブルを照らした。風もないのにテーブルに置かれた白い花はハラリと花びらを落とした。光は白い花びらを黒い影として捉え、花びらの動きを映し出していた。
朝、セキエイが花瓶水を入れたのに、花はもう水を半分ほど体内に取り入れてしまっていた。
もう、そんなに夜も更けてしまっていた。
アン
「君は気がついていたか?ヒスイはもう瞬間移動までできるんだ。だけど、やはりまだ子どもさ。ことの重要さに気がついていない。」
ここでアンは少し俯き、軽く咳払いをした。
アン
「…あの子が狙われているのは、ヒスイが能力者であることがバレてしまったこと、あちこちに現れて秘密を握ってしまったこと、犯罪現場を目撃してしまったこと。あの子は爆弾なんだ。僕の元に依頼が来たのは、不幸中の幸いなんだよ。」
セキエイ
「バカな、俺の前でそんなこと、一度もなかったぞ!?」
セキエイは慌てて左手で口を押さえた。驚きのあまり、飲み込んだコーヒーを鼻から噴射させるという大失態をしそうになったからだ。
アン
「だから僕は、君に力を使ってくれと頼んでいるんだ。あの子は自分が能力者だとわかっていないんだよ!ヒスイを止められるのは、僕と君しかいない。僕が依頼を断ったところで、他の人間がヒスイを狙うだけだ!」
セキエイ
「………あぁっ!クソが!」
セキエイは右手で頭をめちゃくちゃに掻きむしった。
アンはそんなセキエイを見つめていたが、啖呵を切ったかのように、まだ話を続けた。
アン
「……エイジ、君は僕を守るために、記憶を消したっていったね。」
セキエイ
「そうだ」
アン
「あの火事を起こしたのは、ヒスイだからだろ?しかもヒスイは最初、よくわからないまま僕を燃やそうとした。あの子が無意識にテレパシーを出していたんだ。それは君の精神操作よりも、遥かに強い。君は驚いているようだが、本当は頭のどこかでわかっていて、それを認めたくなかったんじゃない?それがもう、通用しなくなっただけだ。タイムイズオーバー。つまり君が消した記憶はもう、2人とも知ってしまった、そういうことだ。」
アンは、セキエイがしたため息よりも、更に大きなため息をついた。
アン
「エイジ、ヒスイから目を背けるか?」
セキエイの答えは、もう、ひとつしかなかった。




