約束の場所
セキエイ
「すやーせーん、これくださーい。」
セキエイは中年女性の店員を呼んだ。
セキエイは一足先に十龍城駅付近にいた。ついさっき買ったものをスーツのポケットにねじ込み、ゆっくりと街を歩いた。
もうすぐ日が暮れそうだった。街にはネオンが点り出している。この日のために、わざわざカジノの仕事を深夜にした。そのせいかろくに寝ていない。セキエイは瞼を擦り、カフェで買ったブラックコーヒーを一口飲んだ。
セキエイ
「…」
交差点の向こうに、赤みを帯びた茶髪の女性がいた。ベージュのコートに焦げ茶色のブーツ。人混みにもみくちゃにされても、眠気に瞼が侵されても、セキエイはすぐにわかった。
セキエイ
「アン」
セキエイは小さな後ろ姿の名を呼んだ。
カンカンカンカン…横断歩道は赤になりそうだった。セキエイはそれでも、後ろ姿を見つめながら渡り始めた。
アン
「…」
アンは振り返った。そのまま立ち尽くして、近づいてくる誰かを眺めていた。
セキエイ
「あがれ」
アン
「…」
待ち合わせ場所から歩いてしばらくして、セキエイはアンを連れて自宅に帰ってきた。セキエイは真横にいるアンを横目で見る。すっと通った鼻筋の下にある、少しだけぽってりとした牡丹色の美しい唇をホタテ貝のように結び、アンはろくに言葉を発しなかった。
セキエイ
「…」
アンは右足を床につけた。そして左足、右足…ごく普通に歩いているだけなのに、少し動けばパアッと散ってしまいそうなほど、セキエイにはアンが儚く脆く見えた。
また痩せただろ。セキエイはアンのコートの隙間から浮き出た鎖骨と首筋を見つめていた。
2人で暮らすには狭いワンルームのアパート。少し広めの2段のクローゼットに布団が敷いてあった。ここで寝ているのだろう。洗濯物はまだ、ベランダに干してあった。
今の僕の家より、狭い。アンは眼球のみを動かし、古い家を眺めていた。
僕は覚えてる。ヒスイが生まれる遥か前も、こうして暮らしていた。あの頃はもっと広く見えた。それは大人になったから?
アン
「…」
アンは動きを止めて、ただ部屋の中を眺めていた。
なんか喋れ、セキエイは少し思ったが言わなかった。言葉を投げつけただけで、アンは散ってしまいそうだったからだ。バラの花びらのように壊れやすいアンを、セキエイは会った時から両手で救うように手をつないでいた。氷ほど冷たくなった小さな手は、セキエイをただ不安にさせていた。
セキエイ
「…アン?」
アン
「…思い出した…」
アンの瞳から、一筋の涙がこぼれた。
アン
「エイジ!!」
セキエイ
「なっ!?」
涙を流したかと思えば、アンは突然セキエイの胸ぐらを掴んで、背伸びをして上目遣いでセキエイを睨んだ。
アン
「どうして記憶を消した!?ヒスイはまだ戻んないのか!」
…おー、も、戻りやがったな…
久し振りのアンの本性に、セキエイはビクッと後退りをしたが、内心はホッとしていた。
お前はやっぱり、そうでなきゃな。セキエイはふふっと笑った。
アン
「笑うな!!僕は真面目に聞いているんだ、ヒスイを出せ!」
セキエイ
「まだ学校だ。戻ってない。今日はクラブ活動があるから…」
アン
「あぁ!?どうしてそんな日に待ち合わせをかましてんだコラぁ!?」
おい、日にち決めたのお前だろ!セキエイは胸ぐらを掴まれたまま、勢い良くツッコミを入れた。
アン
「早くヒスイに会いたいよおおおおお!!!」
セキエイの胸ぐらからパッと手を離すと、アンは子供のようにビービーと泣きじゃくり始めた。
…悪かったなぁ…
ふふふ、とセキエイは口から乾いた笑み、俗に言う嘲笑をした。
すっかり日は傾いた。7階のこのアパートの部屋から、活気に満ちたネオン街が見渡せる。アンはコートを脱いで、セキエイから渡されたハンガーに掛けた。
アン
「お腹すいたなぁ…」
セキエイ
「ヒスイを迎えに行って、3人で飯を食おうかと思ってるんだけど。ほい」
アン
「ありがとう。そうだな。」
セキエイはアンから脱いだ服を受け取り、そのままクローゼットに掛けた。そしてスーツを脱ぎ始めた。
セキエイ
「あぁ、これ。」
アン
「?」
セキエイはジャケットを脱ぐついでに、ポケットから小さな箱を取り出した。
セキエイ
「動くなよ」
セキエイはアンの首筋に手を回した。相変わらず綺麗なデコルテしてんのな。セキエイはネックレスをアンの首につけながら思った。
アン
「鏡ねーのかよ」
セキエイ
「あ、はい。」
セキエイは言われるがまま、窓際のカーテンをめくった。ま、至っていつもと変わらない感じである。
アン
「可愛い。ありがとう。」
小さな一粒のアメジストのペンダントが、アンの胸元に光っていた。アンはそっとアメジストに触れた。
セキエイ
「お気に召されたようで何よりですわ」
セキエイはそう呟くと、カーテンをザッと閉めた。
アン
「…なぁ、エイジ。」
セキエイ
「何?」
アン
「背中を見せてくれ」
セキエイ
「いいよ。」
セキエイはカーテンを閉めた後で、アンに掴まれて少し曲がったネクタイに手をかけた。
アンは、最後にセキエイにあったときの記憶を鮮明に思い出した。
奥門の港湾施設でのことだ。地獄ってここを言うのか、と思うくらいのところだった。熱い、苦しい、怖い、人間を飲み込む恐怖を具現化したものだった。
セキエイはアンとヒスイを抱えて、火のついた柱を背中で受け止めた。
ぐぅわぁぁぁぁ!!!と声にならない声を出しながら、燃えるジャケットを脱ぎ捨てのたうち回っていた。
そこから先は本当に覚えていない。断末魔は、いつになっても聞き慣れることはなかった。
目の前でセキエイは、水色のワイシャツを脱いでさらに中に着ている肌着を脱いでいた。その瞬間、アンはなぜか目を背けたくなり、とっさに目を閉じた。
アン
「…意外とそうでもない。」
恐る恐る目を開けたアンは右手を伸ばし、目の前のセキエイの背中を見た。そのままその手で、両肩に少しだけ残ったケロイドを指でなぞった。
セキエイ
「手が冷たいな。寒いのか?」
アン
「…少し。」
セキエイ
「そう。俺も寒いから一緒にベッド行かね?」
アン
「あれは押入れだろーが、アホか。」
セキエイ
「…そうとも言う…」
アンは思わずプッと吹き出した。その瞬間、セキエイの背中からそっと指を離した。




