第百話 夜のしじまに
「……できた!」
『王国』の城内に備えつけられている王立図書館――。
あいかわらず寝食を忘れて『創世記』の翻訳に没頭していたルイスは、ついに最後の一文字の翻訳を終えて、晴れ晴れとした表情で『創世記』を閉じた。
達成感でひとり涙ぐみながら、何枚もの羊皮紙にわたる翻訳文を手に取る。
「……やった、やったぞっ……!」
ついに自分は、この世界で『創世記』を訳した最初の人間になったのだ。
(エリアス、これで私も、勇者パーティの一員としての役目をまたひとつ果たせただろうか――)
きっといまごろ魔王城にたどり着いているであろうエリアスたちのことを思いながら、ルイスはもう一度、『創世記』の内容を頭の中で反芻した。
(もしも、ここに書かれている内容が事実なのだとしたら……)
――これは……大変なことだ。
『神殿』が創世記を管理して外部にいっさい内容を漏らさない理由、月の女神がなぜこの世界の消滅を願うのか、勇者と魔王、その片腕たちが存在する理由――そのすべての物事が繋がるのだ。
点々と浮かんでいた謎も、全部が因果関係によって成り立っていたのだと理解できた。
この世界が、こんな不安定な状態で成り立っているとは思わなかった。
創世歴時代に起きたイヴァン・クラレンスとレナード・ゲインズの抗争によって、この世界は非常に綱渡りのような状況で存続していたのだ。
「これでは、この世界はいつ滅びてもおかしくないではないか……」
額に片手を当てて、ルイスはうなだれる。
エリアスたちはいずれ、月の女神とこの世界の存続をかけて戦うことになるのだろう。
だが――……。
『創世記』に書かれていることが事実だとしたら、もしそれでエリアスたちが月の女神に打ち勝ち、世界の脅威を退けたとしても、不安定なこの世界を救う根本的な解決にはならないのではないだろうか……。
(どうしたら、イヴァンとレナードの争いによって失われてしまった太陽の女神と月の女神の力のバランスを取り戻すことができるのだ……)
その問題を解決しない限り、勇者と魔王は創造エネルギーの補てんのために犠牲になり続けなければならないのではないだろうか。
このままでは、結局最後には、エリアスか魔王――どちらかの命を失わなければならない耐えがたい結末になってしまうような気がするのだ。
(……駄目だ。私ひとりの力では到底太刀打ちできる問題ではない……)
ルイスは、手元の翻訳文の横に並べて置いていた、もうひとつの羊皮紙の束を取る。
これは、『創世記』の概要を簡単にまとめたものだ。
これをとある人に渡すため、自分は翻訳と同時にこの概要分をしたためていたのだ。
(エリアスたちが月の女神を相手どって戦うにしろ、その後の世界をどう支えていくかにしろ――私の兄の力が、きっとエリアスたちに必要になるはずだ)
ルイスは深呼吸をすると、もう夜も遅く誰もいなくなった王立図書館――その柱の陰に目を向けて、静かに口を開く。
「――誰かいるか」
しんと静まり返った天井高い場内にルイスの声が響き渡り、柱の裏側から、ひとりの人影が滑り出た。
「ここにおります、ルドヴィーク様」
ルドヴィークというのは、自分の本名だ。
皆に名乗っているルイス・ニールというのは偽名である。
ルイスは、概要の書かれた羊皮紙を麻のひもで括ると、そっとその人物に差し出す。
「急ぎ、兄上にこの書簡をお届けしてくれ。その後、ルドヴィークがお目通りを願っていると伝えてもらえるか」
「――御意」
黒いローブを頭から被り、人相を隠した人影はルイスから恭しく書簡を受け取ると、闇に溶け込むようにその場から掻き消える。
「……よし、ひとまず兄上のほうはこれでよかろう」
ルイスは写本の『創世記』と、その翻訳文を大事に革袋にしまい込むと、静かに立ち上がり、ひと気のない王立図書館を後にする。
そうして、寝静まった町中を歩きながら、ミーナの待つ宿屋へと急いだ――。
「ミーナ、ミーナ、起きているか?」
王都の広場の一角にある素朴な宿屋――そこにミーナとともに寝泊りをしているルイスは、宿に帰りつくなり自分たちが宿泊している部屋の扉を小さくノックした。
宿泊客が寝入っていることに配慮して声をひそめつつも、何日もかかっていた『創世記』の翻訳をついに終えた高揚感から、つい声が弾んでしまう。
何日も泊まり込む関係で、ミーナとは同室で寝泊りしているのだが、おたがいが外出から帰ってくるときはかならずノックをして知らせること、とルールを決めていた。
宿屋の廊下にたたずんでミーナの応答を待っていると、すぐに、かちゃり、と静かに扉が開かれ、ミーナが顔を覗かせた。
「おかえりなさい、ルイス。ちゃんと起きているわよ。さ、入って入って」
ミーナが片目をつむって明るく出迎えてくれて、それだけで疲れも吹き飛ぶようで心が安らぐ。
ほんの些細なことなのだが、こういったふとした瞬間に、彼女のことが好きだなあと思うのだ。
彼女は綺麗に片づけてある部屋の中央まで進むと、彼女の後に続いて部屋に入ったルイスをくるりと振り向いた。
「それでルイス、夕食は食べたの? どうせあんたのことだから飲まず食わずで翻訳に没頭してるだろうなって思って、あたし、宿の女将さんに夕食を取り置きしてもらうように頼んであるのよ。よかったらそれもらってく――」
ミーナがみなまで言い切るまえに、ルイスは彼女に駆け寄ってその両手を取っていた。
「――なっ!? なななな、ど、どうしたのよルイスっ!?」
なぜか真っ赤になって狼狽しているミーナに、ルイスは『創世記』の翻訳を終えた興奮冷めやらぬ勢いで彼女にずずいと顔を寄せて言う。
「ミーナ! やったんだっ、私はついにやり遂げたのだ!」
「や、やり遂げたって、なにを――」
「『創世記』の翻訳さ! ほら、見てくれよ、これを!」
自分でも大人げないほどにはしゃいでしまいながら、ルイスはミーナの前に羊皮紙の束を突き出す。
ミーナは、ルイスの勢いに押されて目を丸くしながら、ルイスの興奮気味の顔と突き出された羊皮紙の束を交互に見た。そうして、嬉しそうに笑って顔の前で両手を合わせる。
「すごいじゃない! おめでとう、ルイス! あなたなら絶対やり遂げてくれるって、あたし信じてたわ! これでエリアスたちにも喜んでもらえそうねっ」
「ああ。早くエリアスたちに見せるのが待ち遠しいよ。――それで、この『創世記』なんだが、さすが『神殿』や魔王が厳重に管理していたとおり驚くべき史実が書かれていたよ。とても恐ろしい……私たちには到底想像も及ばないようなすさまじい出来事があって、この世界はとても不安定に存続しているのだ」
「すさまじい、出来事……?」
声のトーンを落としたルイスに感化されるように、ミーナも神妙な面持ちを浮かべる。
ルイスは静かにうなずいた。
「ああ……。ひとまず、私の記憶が鮮明なうちに、君に『創世記』の内容を話しておきたい。今から話すと――そうだな、日が明けてしまうかもしれないが、つきあってもらっていいだろうか?」
うかがうように聞くと、ミーナはふたつ返事でうなずいた。
「もちろんよ! 明日の朝までだってなんだって付き合うわ。――あなたが頑張って調べてくれた大切な話を、あたしに一番に聞かせてくれてありがとう、ルイス。嬉しいわ」
にっこりと笑って、ミーナがルイスの顔を見上げながらそっと手を取る。
ランプの橙色の明かりを受けたミーナの笑顔が、光がきらめているようにとても美しく見えて――ルイスは、息を呑みながら、柄にもなく顔が熱くなってしまった。
この暗闇で、赤くなった顔がわかりづらいといいのだが……。
そんなことを思って黙り込んでいると、ミーナが不思議に持ったのか小首を傾げた。
「どうしたのよ、ルイス?」
「え? あ、いいや、なんでもないのだ。君に、そう言ってもらえるととても嬉しいと思ってな。君は私の、大切な――」
そこまで言いかけて、彼女が赤く染まった顔で固まっていることに気づく。
ルイスは、はっと我に返ったように言葉を呑み込んだ。
このまま気持ちを伝えれば、彼女はなんと答えてくれるだろうか。
きっと彼女を困らせて、おたがいに気まずくなってしまうのではないだろうか……。
(私は……)
いまのミーナとの心地よい関係を、失いたくない。
つかず離れずの、おたがいにど付き合えるこの関係でいたいのだ。
――私はいままで、身分上、彼女のように友人として対等な立場で話せる女性は、ひとりもいなかったから……。
いまの関係を壊したくない――勇気のない自分は、それ以上本心を伝えられずに、あいまいな笑顔でミーナに言葉を続けた。
「――君は私の、大切な仲間だから」
自分の心の内が伝わったのかどうなのか、ミーナはどこか寂しげに笑んでうなずいた。
「ありがとう、ルイス。あたしにとっても、あんたは最高の仲間よ! これからもよろしくね!」
……意気地のない私は、彼女への一歩が踏み出せないのだ。
このままでは、いつか彼女を他の男にとられてしまう可能性もあるというのに。
「ミー……」
声をかけようとしたルイスに、ミーナは気持ちを切り替えるように、ぱんと手を叩いてみせた。
「――さ、それじゃあ、長くなりそうだからまずはあんたの夕食をもらってくるわね! お腹が空いてちゃさすがのあんたも頭まわらないでしょ」
「あ、ああ」
「ついでに紅茶も淹れてくるわ! ちょっと待っていて!」
ミーナはそう早口でまくし立てると、足早に部屋を飛び出していってしまった。
――気を、遣わせてしまったかもしれない……。
ルイスは、やりきれない思いにそっと自分の腕をつかむ。
(ミーナは、私のことをどう思っているのだろうか……)
いつか、男として潔く踏み込めるように、彼女に恥じない強く立派な男になりたい。
彼女が出ていった部屋の扉を見つめながら、ルイスはそっと心に誓った。
そうして、ミーナがルイスの夕食とふたり分の紅茶を用意して戻ってきて――夜も更けた独特の静けさと落ち着きのなかで、ルイスとミーナは、部屋の中央に置かれた簡素なテーブルに向き合って座っていた。
ひととおり食事も済んだところで、綺麗に片づけられたテーブルの上に、ルイスは『創世記』の写本と翻訳文を並べる。
ジジ……と近くに置いた獣脂のろうそくの炎が揺れて、向かい合う自分たちの顔と手もとの書物をほのかに照らし出した。
ルイスは一度咳ばらいをすると、向かいのミーナを神妙に見つめる。
「――それでは、さっそくだが『創世記』の内容について話そう。この物語は、序章で創造主エドクレスが太陽の女神と月の女神を造り出し、この世界を天地創造したところから始まり――終章で、創世歴時代を生きたふたりの男たちの生涯までが書かれているのだ」
「ふたりの男たち……」
ミーナが、緊張した面持ちでごくりとつばを飲み込む。
ルイスはうなずいた。
「そうだ。その男たちというのは、『神殿』の創始者であり太陽系魔法を編み出したイヴァン・クラレンスと、その親友であった月系魔法の生みの親であり魔法の申し子と呼ばれたレナード・ゲインズのふたりだ」
「ヨハンと、レオのご先祖様よね……?」
「ああ。そのふたりの革命家が招いた争いが、この世界が勇者と魔王を造り出し、創造エネルギーの補填をしなければ世界を維持できない悪循環を生み出してしまったんだ。『創世記』は世界の誕生からその悪循環に至るまでの史実が描かれている」
ルイスは、目の前の『創世記』を、ぺらぺらと指先でめくってみせる。
そうして、創造主エドクレスの肖像画が描かれているページを開いた。
その容貌を見るなり、ミーナが目を見開く。
「エリアスっ!?」
「そうだ。創造主エドクレスは、目の色こそ翠と赤で違えど、エリアスとうり二つなのだ。おそらく太陽の女神は、エドクレスに似せてエリアスを造り出したのだろう」
「…………」
ミーナは、思案するように顎に手を当てる。
「……それには、どういった意味があるのかしら?」
「私にも正解はわからないが――……おそらく、エドクレスもエリアスも、太陽の女神と月の女神に愛された存在だった、ということなのだろう。そして――」
ルイスはそこで言葉を切ると、ミーナを射抜くように見つめた。
「そして、驚くべきことに、この世界を造り出した創造主エドクレスは――アキとナコと同じ世界に生まれた人間だったのだ」
いよいよ百話となりました!
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