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山の上のマンション 〜うさぎの管理人と、ひとり暮らしの瞳さん〜  作者: まーサンタ


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9/19

第9話


 午後のエントランスは、いつもより少しだけ静かだった。


 私は買い物から戻り、エレベーターを待っていた。


 すると、入口の扉が開いた。


 若い男女が二人、並んで入ってくる。


 二人とも見慣れない顔だった。


 男性が大きな段ボール箱を抱え、女性は小さな鞄を持っている。


 引っ越してきたばかりなのだろう。


「こんにちは」


 私から声をかけると、二人は少し驚いたようにこちらを見た。


「あ、こんにちは」


「こんにちは」


 丁寧に頭を下げる。


「最近、お引っ越しされた方かしら?」


「はい。飯田と申します」


 男性が名乗った。


「妻の美和です」


「私は瞳と申します。このマンションには長く住んでいるので、何か分からないことがあれば聞いてくださいね」


「ありがとうございます」


 二人はほっとしたように笑った。


「転勤でこちらの街に来たんです」


「まあ、大変でしたね」


「はい。でも、この辺りは静かでいいですね」


 そんな話をしていると、エントランスの奥から足音が聞こえてきた。


 振り返る。


 田中さんだった。


「こんにちは」


 いつもの穏やかな声。


「こんにちは、田中さん」


 私が挨拶すると、田中さんもこちらへ近づいてくる。


「新しく越してこられた方ですか?」


「はい。飯田です」


「田中と申します。四階に住んでおります」


「よろしくお願いします」


 飯田さん夫妻も頭を下げた。


 そのときだった。


 二人が、ほんの少しだけ顔を見合わせた。


 私はその理由に気づいた。


 田中さんは、人ではない。


 茶色い毛並みの犬の男性だ。


 けれど、ここではそれが特別なことではない。


「……あの」


 飯田さんが少し迷いながら口を開いた。


「はい?」


「今の方……犬、ですよね?」


「ええ。田中さんですよ」


「あ、いえ。もちろん、田中さんなのは分かるんですが……」


 飯田さんは困ったように笑った。


「前にいた街では、こういう光景は見かけないものだったので」


 奥さんの美和さんも頷いた。


「私も、最初に見たときは少し驚きました」


「そうなのですね」


 私は微笑んだ。


「こちらでは、皆さん普通に暮らしていますから」


「そうみたいですね」


 飯田さんは田中さんの去っていく姿を見送った。


「まだ少し不思議な感じがします」


「そのうち慣れますよ」


 そう言うと、美和さんが笑った。


「そうかもしれませんね」


 翌朝。


 エントランスで、また飯田さん夫妻に会った。


「おはようございます」


「おはようございます、瞳さん」


 二人の様子は昨日より少し落ち着いていた。


 そこへ、三階の小林さんがやってくる。


「おはようございます」


「おはようございます、小林さん」


 小林さんは二人に気づくと、すぐに声をかけた。


「あら、新しい方ね?」


「はい、飯田です」


「私は小林。三階に住んでいるの」


「よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 小林さんはにこにこと笑っている。


「分からないことがあったら、管理人さんに聞くといいわ」


「はい」


「でも、管理人さんは忙しいから、私に聞いてくれてもいいわよ」


 飯田さん夫妻が笑った。


「ありがとうございます」


「じゃあ、またね」


 小林さんはエレベーターへ向かっていった。


 その後ろ姿を見て、美和さんが小さく呟く。


「猫の方……ですよね?」


「ええ」


「……すごく普通に会話されてましたね」


「ここでは、それが普通ですから」


 私はそう答えた。


 飯田さん夫妻は、また顔を見合わせる。


 けれど、昨日ほど驚いてはいなかった。


 数日が過ぎた。


 飯田さん夫妻は、少しずつマンションの生活に馴染んでいった。


 朝には佐田さん一家と会い、学校へ向かう小学一年生の男の子に挨拶をする。


 夕方には相田さん一家とすれ違い、女の子のランドセルに気づいて「おかえりなさい」と声をかける。


 田中さんとも、自然に言葉を交わすようになった。


 小林さんからは、マンションの細かなことをいろいろ教えてもらっているらしい。


 ある日の夕方。


 私は一階のベンチに座り、買い物袋を整理していた。


 そこへ飯田さん夫妻がやってきた。


「瞳さん」


「こんにちは」


「こんにちは」


 二人とも、以前よりずっと自然な表情になっていた。


「このマンション、だいぶ慣れました」


「それはよかったわ」


 美和さんが笑う。


「最初は、動物の方が普通に暮らしているのにびっくりしてしまって」


「そうでしょうね」


「でも、皆さんすごく親切で」


 飯田さんも頷いた。


「むしろ、自分たちのほうが気にしすぎていたのかもしれません」


「そんなことはありませんよ」


 私は笑った。


「初めてなら、驚くのが普通ですもの」


「そう言ってもらえると助かります」


 そのとき。


「瞳さん」


 聞き慣れた声がした。


 振り返る。


 管理人室から、うさぎさんが出てきたところだった。


「こんにちは、いなばさん」


「こんにちは」


 うさぎさんは私たちのところへやってきた。


「こちらは?」


「最近入居された飯田さんご夫妻です」


「そうでしたか」


 うさぎさんは二人に向かって、丁寧に頭を下げた。


「管理人の、いなばと申します。どうぞよろしくお願いいたします」


「あ……はい」


 飯田さんが一瞬だけ固まった。


 美和さんも目を丸くしている。


 そして二人は、同時にうさぎさんを見た。


 私は思わず笑いそうになった。


「……管理人さんも」


 飯田さんが、ぽつりと言った。


「はい」


 うさぎさんはいつもの落ち着いた顔で答える。


「こちらで管理人をしております」


「あ、いえ……よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 美和さんも慌てて頭を下げた。


 その様子を見て、私はとうとう笑ってしまった。


「大丈夫ですよ」


「はい……」


 飯田さん夫妻も、つられて笑った。


 夕方の光が、エントランスのガラス越しに差し込んでいる。


 ここでは、人も動物も、それぞれの暮らしを送っている。


 それを当たり前だと思っている私たちにとっては、いつもの景色。


 けれど、外から来た人には、少し不思議に見えるのだろう。


 それでも。


 何日か暮らして、挨拶をして。


 一緒に笑って。


 名前を覚えて。


 そうしているうちに、いつか見慣れた景色になっていく。


 私は隣にいるうさぎさんを見た。


 飯田さん夫妻は、まだ少し驚いた顔をしている。


 でも、その表情にはもう、昨日までの戸惑いだけはなかった。


「きっと、そのうち慣れますよ」


 私がそう言うと、飯田さんが笑った。


「はい」


 山の上のマンションには、今日もいろいろな住人がいる。


 新しい人も。


 ずっと暮らしている人も。


 人も、動物も。


 みんな少しずつ、この場所の日常になっていく。


 そんなことを思いながら、私は夕暮れの山を眺めていた。

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