第9話
午後のエントランスは、いつもより少しだけ静かだった。
私は買い物から戻り、エレベーターを待っていた。
すると、入口の扉が開いた。
若い男女が二人、並んで入ってくる。
二人とも見慣れない顔だった。
男性が大きな段ボール箱を抱え、女性は小さな鞄を持っている。
引っ越してきたばかりなのだろう。
「こんにちは」
私から声をかけると、二人は少し驚いたようにこちらを見た。
「あ、こんにちは」
「こんにちは」
丁寧に頭を下げる。
「最近、お引っ越しされた方かしら?」
「はい。飯田と申します」
男性が名乗った。
「妻の美和です」
「私は瞳と申します。このマンションには長く住んでいるので、何か分からないことがあれば聞いてくださいね」
「ありがとうございます」
二人はほっとしたように笑った。
「転勤でこちらの街に来たんです」
「まあ、大変でしたね」
「はい。でも、この辺りは静かでいいですね」
そんな話をしていると、エントランスの奥から足音が聞こえてきた。
振り返る。
田中さんだった。
「こんにちは」
いつもの穏やかな声。
「こんにちは、田中さん」
私が挨拶すると、田中さんもこちらへ近づいてくる。
「新しく越してこられた方ですか?」
「はい。飯田です」
「田中と申します。四階に住んでおります」
「よろしくお願いします」
飯田さん夫妻も頭を下げた。
そのときだった。
二人が、ほんの少しだけ顔を見合わせた。
私はその理由に気づいた。
田中さんは、人ではない。
茶色い毛並みの犬の男性だ。
けれど、ここではそれが特別なことではない。
「……あの」
飯田さんが少し迷いながら口を開いた。
「はい?」
「今の方……犬、ですよね?」
「ええ。田中さんですよ」
「あ、いえ。もちろん、田中さんなのは分かるんですが……」
飯田さんは困ったように笑った。
「前にいた街では、こういう光景は見かけないものだったので」
奥さんの美和さんも頷いた。
「私も、最初に見たときは少し驚きました」
「そうなのですね」
私は微笑んだ。
「こちらでは、皆さん普通に暮らしていますから」
「そうみたいですね」
飯田さんは田中さんの去っていく姿を見送った。
「まだ少し不思議な感じがします」
「そのうち慣れますよ」
そう言うと、美和さんが笑った。
「そうかもしれませんね」
翌朝。
エントランスで、また飯田さん夫妻に会った。
「おはようございます」
「おはようございます、瞳さん」
二人の様子は昨日より少し落ち着いていた。
そこへ、三階の小林さんがやってくる。
「おはようございます」
「おはようございます、小林さん」
小林さんは二人に気づくと、すぐに声をかけた。
「あら、新しい方ね?」
「はい、飯田です」
「私は小林。三階に住んでいるの」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
小林さんはにこにこと笑っている。
「分からないことがあったら、管理人さんに聞くといいわ」
「はい」
「でも、管理人さんは忙しいから、私に聞いてくれてもいいわよ」
飯田さん夫妻が笑った。
「ありがとうございます」
「じゃあ、またね」
小林さんはエレベーターへ向かっていった。
その後ろ姿を見て、美和さんが小さく呟く。
「猫の方……ですよね?」
「ええ」
「……すごく普通に会話されてましたね」
「ここでは、それが普通ですから」
私はそう答えた。
飯田さん夫妻は、また顔を見合わせる。
けれど、昨日ほど驚いてはいなかった。
数日が過ぎた。
飯田さん夫妻は、少しずつマンションの生活に馴染んでいった。
朝には佐田さん一家と会い、学校へ向かう小学一年生の男の子に挨拶をする。
夕方には相田さん一家とすれ違い、女の子のランドセルに気づいて「おかえりなさい」と声をかける。
田中さんとも、自然に言葉を交わすようになった。
小林さんからは、マンションの細かなことをいろいろ教えてもらっているらしい。
ある日の夕方。
私は一階のベンチに座り、買い物袋を整理していた。
そこへ飯田さん夫妻がやってきた。
「瞳さん」
「こんにちは」
「こんにちは」
二人とも、以前よりずっと自然な表情になっていた。
「このマンション、だいぶ慣れました」
「それはよかったわ」
美和さんが笑う。
「最初は、動物の方が普通に暮らしているのにびっくりしてしまって」
「そうでしょうね」
「でも、皆さんすごく親切で」
飯田さんも頷いた。
「むしろ、自分たちのほうが気にしすぎていたのかもしれません」
「そんなことはありませんよ」
私は笑った。
「初めてなら、驚くのが普通ですもの」
「そう言ってもらえると助かります」
そのとき。
「瞳さん」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
管理人室から、うさぎさんが出てきたところだった。
「こんにちは、いなばさん」
「こんにちは」
うさぎさんは私たちのところへやってきた。
「こちらは?」
「最近入居された飯田さんご夫妻です」
「そうでしたか」
うさぎさんは二人に向かって、丁寧に頭を下げた。
「管理人の、いなばと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「あ……はい」
飯田さんが一瞬だけ固まった。
美和さんも目を丸くしている。
そして二人は、同時にうさぎさんを見た。
私は思わず笑いそうになった。
「……管理人さんも」
飯田さんが、ぽつりと言った。
「はい」
うさぎさんはいつもの落ち着いた顔で答える。
「こちらで管理人をしております」
「あ、いえ……よろしくお願いします」
「こちらこそ」
美和さんも慌てて頭を下げた。
その様子を見て、私はとうとう笑ってしまった。
「大丈夫ですよ」
「はい……」
飯田さん夫妻も、つられて笑った。
夕方の光が、エントランスのガラス越しに差し込んでいる。
ここでは、人も動物も、それぞれの暮らしを送っている。
それを当たり前だと思っている私たちにとっては、いつもの景色。
けれど、外から来た人には、少し不思議に見えるのだろう。
それでも。
何日か暮らして、挨拶をして。
一緒に笑って。
名前を覚えて。
そうしているうちに、いつか見慣れた景色になっていく。
私は隣にいるうさぎさんを見た。
飯田さん夫妻は、まだ少し驚いた顔をしている。
でも、その表情にはもう、昨日までの戸惑いだけはなかった。
「きっと、そのうち慣れますよ」
私がそう言うと、飯田さんが笑った。
「はい」
山の上のマンションには、今日もいろいろな住人がいる。
新しい人も。
ずっと暮らしている人も。
人も、動物も。
みんな少しずつ、この場所の日常になっていく。
そんなことを思いながら、私は夕暮れの山を眺めていた。




