第8話
朝から雨が降っていた。
山の上では、雨の日になると空が近く感じる。
私はいつもより少し早く管理人室へ入り、窓の外を眺めた。
細かな雨が、マンションの周りの木々を濡らしている。
「今日は一日、雨でしょうか」
独り言をつぶやきながら、傘立てを確認する。
雨の日は、普段より少しだけ仕事が増える。
エントランスにマットを敷き、床が滑らないようにする。
濡れた傘から落ちる水も、こまめに拭いておく。
誰かが転んでからでは遅い。
管理人の仕事は、何かが起きてから動くよりも、起きないようにしておくことのほうが多い。
そう考えながら、私はエントランスを整えた。
「おはようございます、うさぎさん」
声をかけてきたのは、犬の田中さんだった。
田中さんは、茶色い毛並みの中年の犬である。
「おはようございます」
いつもの散歩の時間だ。
しかし今日は、入口のところで立ち止まっている。
「どうしました?」
「いやあ……」
田中さんは、垂れた耳を揺らしながら外を眺めた。
「今日は、ずいぶん降っていますね」
「ええ」
「少しだけ歩いてきます」
「お気をつけて」
「ありがとうございます」
田中さんは傘を開いた。
けれど、いつものように遠くまで歩くことはせず、マンションの周りを少し歩いただけで戻ってきた。
「今日は短めですね」
「雨の日は、花も休んでいますから」
濡れた鼻先をハンカチで拭きながら、田中さんが答える。
「なるほど」
「私も今日は休みます」
そう言って、田中さんは笑った。
雨の日にも、その人らしさがある。
「うさぎさん」
今度は、小林さんだった。
小林さんは、灰色の毛並みをした猫の女性である。
「おはようございます」
「今日は洗濯物が乾かないわねえ」
「そうですね」
「昨日、晴れているうちにやっておけばよかったわ」
「昨日も十分、洗濯していらしたように見えましたが」
「あら、見てたの?」
「たまたまです」
「まあ、管理人さんは何でも見てるのね」
「仕事ですから」
小林さんは、長いひげを揺らして笑った。
「でも、雨の日って嫌いじゃないのよ」
「そうなのですか?」
「家の中でゆっくりできるでしょう?」
「確かに」
「それに、こういう日は住人同士で話す時間が増えるもの」
そう言って、小林さんはエントランスを見回した。
「じゃあ、また後でね」
「はい」
小林さんは、しっぽをゆっくり揺らしながらエレベーターへ向かっていった。
しばらくして、エレベーターの扉が開いた。
佐田さん一家が降りてくる。
佐田さん一家は、三人とも亀の住人である。
お父さんの佐田さんは大きな甲羅を背負い、奥さんは少し小さめの甲羅を背負っている。
小学一年生の息子さんは、まだ甲羅が小さく、黄色いレインコートを着ていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
佐田さんの奥さんが挨拶をする。
「おはようございます!」
息子さんも元気よく声を上げた。
その手には、小さな傘が握られている。
「おはようございます。今日は雨ですね」
「うん」
男の子は傘を見つめた。
どうやら、開くのが少し苦手らしい。
「貸してごらんなさい」
私は傘を受け取り、ゆっくりと開いた。
ぱっと傘が開く。
「できた!」
「これで大丈夫ですね」
「ありがとう、うさぎさん!」
「どういたしまして」
佐田さんが、甲羅を揺らして笑った。
「いつもすみません」
「いえいえ」
「この子、雨の日は傘を持つだけで少し疲れてしまうんです」
「一年生ですからね」
男の子は少し照れたように笑った。
「いってらっしゃい」
「いってきます!」
三人は傘を差して、外へ出ていった。
その少し後。
相田さん一家もエントランスへやってきた。
相田さん一家は、人間の家族である。
お父さんとお母さん、そして小学一年生の女の子が暮らしている。
「おはようございます」
「おはようございます」
小学一年生の女の子は、今日は少し浮かない顔をしている。
「どうしました?」
私が尋ねると、
「雨、いやなの」
小さな声で答えた。
「そうですか」
「靴が濡れるから」
すると、お母さんが女の子の肩に手を置いた。
「学校から帰ったら、温かいものを作ってあげるから」
「ほんと?」
「ほんとよ」
女の子の顔が少し明るくなった。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
相田さん一家も、雨の中へ出ていった。
私はその後ろ姿を見送った。
午前中の仕事を終え、管理人室へ戻ろうとしたときだった。
エントランスの隅に、小さなものが落ちているのに気づいた。
拾い上げる。
子ども用のハンカチだった。
濡れてはいない。
おそらく、先ほど誰かが落としたのだろう。
「これは……」
私はしばらく考えた。
名前は書かれていない。
とりあえず管理人室で預かることにした。
「うさぎさん」
昼前、小林さんがやってきた。
「これ、見覚えがあるわ」
ハンカチを見るなり、そう言った。
「佐田さんの息子さんじゃない?」
「そう思いますか?」
「たぶんね。昨日も持っていたもの」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「子どもは毎日同じものを持ってくることが多いもの」
小林さんは、猫らしく得意そうに胸を張った。
「帰ってきたら聞いてみましょう」
「そうしましょう」
午後になり、雨が少し弱くなった。
エレベーターが一階に着く音がした。
扉が開き、瞳さんが降りてきた。
「こんにちは、いなばさん」
「こんにちは、瞳さん」
「今日は雨ですね」
「ええ」
瞳さんはエントランスを見回した。
「何かありました?」
「実は、これを拾いまして」
私はハンカチを見せた。
瞳さんはそれを見て、微笑んだ。
「小さなものでも、持ち主にとっては大切なものですものね」
「そうですね」
「見つかるといいですね」
「きっと見つかります」
瞳さんは頷いた。
「では、私は少し買い物へ」
「お気をつけて」
「ありがとうございます」
瞳さんが傘を開き、外へ出ていく。
雨は、朝よりもずっと弱くなっていた。
夕方。
雨が上がった。
山の向こうから、淡い光が差し込んでくる。
エントランスの扉が開いた。
「ただいま!」
元気な声。
佐田さん一家だった。
男の子が私のところへ走ってくる。
「うさぎさん!」
「おかえりなさい」
「これ!」
私はハンカチを渡した。
「あっ!」
男の子の顔が明るくなる。
「ぼくの!」
「落としていましたよ」
「ありがとう!」
「どういたしまして」
佐田さん夫妻も、ほっとしたように笑った。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
その様子を見ていると、エレベーターの扉が開いた。
瞳さんが降りてきた。
私たちと目が合う。
「見つかったのですね」
「はい」
私が答えると、瞳さんは嬉しそうに微笑んだ。
「よかったわ」
男の子も笑っている。
外では、雨上がりの山に夕日が差していた。
雨の日には、雨の日の暮らしがある。
晴れの日とは少し違う。
けれど、そこにあるのは、やはりいつもの毎日だった。
誰かが出かけて。
誰かが帰ってくる。
誰かが困れば、誰かが気づく。
私は濡れたエントランスを見渡した。
今日も、この場所に誰かが帰ってくる。
それだけで、管理人としては十分だった。




