第7話
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
私はゆっくりとカーテンを開ける。
山の向こうには、薄い雲が浮かんでいた。
今日は、穏やかな一日になりそうだった。
朝食を済ませ、紅茶を飲む。
静かな朝だった。
時計の音と、遠くから聞こえる鳥の声。
私はしばらく窓の外を眺めてから、出かける準備をした。
小さな買い物袋を手にして、部屋を出る。
十五階には、私の部屋しかない。
静かな廊下を歩き、エレベーターの前へ向かう。
ボタンを押す。
しばらくして、扉が開いた。
私は中へ入り、一階のボタンを押した。
扉が閉まる。
エレベーターがゆっくりと下りていく。
階数表示が、一つずつ変わっていった。
この時間なら、学校へ向かう子どもたちに会えるかもしれない。
そんなことを考えていると、エレベーターが一階に着いた。
扉が開く。
エントランスには、何人かの住人がいた。
「おはようございます、瞳さん」
声をかけてきたのは、佐田さんだった。
亀の男性で、いつも穏やかな表情をしている。
隣には奥さん。
そして、その間には小学一年生の息子さんが立っていた。
「おはようございます」
私は笑顔で挨拶を返した。
「今日は学校ね」
「うん!」
男の子は元気よく答えた。
「もう一年生にも慣れた?」
「うん!」
「それはよかったわ」
すると、男の子が思い出したように言った。
「瞳さん、昨日の絵、見てくれる?」
「昨日の絵?」
「学校で描いたの」
佐田さんの奥さんが笑う。
「昨日からずっと、皆さんに見せたがっているんですよ」
「そうなのね」
男の子は嬉しそうに頷いた。
「マンションを描いた!」
「まあ。どんな絵かしら」
「山も描いた!」
「素敵ね」
「あと、お父さんとお母さん!」
佐田さんが少し照れたように笑った。
「私はずいぶん大きく描かれていました」
「お父さんだから!」
「なるほど」
私は思わず笑ってしまった。
佐田さん一家は、いつもこんなふうに穏やかだった。
お父さんはゆっくり話し、お母さんは息子さんの話を楽しそうに聞いている。
そして息子さんは、何でも嬉しそうに話してくれる。
「では、私たちは行きますね」
佐田さんが言った。
「いってらっしゃい」
「いってきます!」
息子さんが元気に手を振る。
私も手を振り返した。
佐田さん一家を見送っていると、今度は入口のほうから声がした。
「おはようございます」
相田さん一家だった。
人間の相田さんと奥さん。
その隣には、小学一年生の女の子がいる。
女の子はランドセルを背負っていた。
「おはようございます」
私が挨拶すると、女の子も小さく頭を下げる。
「おはようございます」
「今日も学校ね」
「はい」
「楽しい?」
女の子は少し考えてから答えた。
「楽しいです」
「それはよかったわ」
相田さんの奥さんが笑う。
「最近は、帰ってくると学校の話ばかりなんです」
「何のお話をするの?」
「昨日は給食の話でした」
「何を食べたの?」
私が尋ねると、女の子の顔がぱっと明るくなった。
「カレー!」
「まあ。カレーだったの」
「今日もカレーがいいな」
「毎日は出ないでしょう?」
お母さんが笑う。
「そうなの?」
「そうよ」
女の子は少し残念そうな顔をした。
それを見て、私も笑った。
「でも、今日のお昼もきっと美味しいわよ」
「うん」
女の子が頷く。
その笑顔がとても可愛らしかった。
相田さん一家も学校へ向かっていった。
私はエントランスに残り、外の景色を眺めた。
朝の山は、まだ少しひんやりとしている。
けれど、日差しは柔らかい。
ここには、いろいろな人が住んでいる。
人間も、動物も。
一人で暮らす人もいれば、家族で暮らす人もいる。
朝になれば、それぞれの場所へ出かけていく。
学校へ。
仕事へ。
買い物へ。
そして夕方になれば、またこのマンションへ帰ってくる。
そんな当たり前の繰り返しが、私は好きだった。
「瞳さん」
後ろから声がした。
振り返る。
うさぎさんが、管理人室から出てきたところだった。
「おはようございます、いなばさん」
「おはようございます」
「今、佐田さん一家と相田さん一家を見送ったところです」
「そうでしたか」
うさぎさんはエントランスの外へ目を向けた。
「今日は皆さん、少し早いようですね」
「ええ。子どもたちは元気ですね」
「そうですね」
うさぎさんが微笑む。
私はふと、彼の手元を見た。
「今日は何をされていたの?」
「掲示板の確認をしていました。それから、郵便受けの周りを少し」
「朝から大変ですね」
「これくらいは管理人の仕事ですから」
「そう言うと思いました」
私は小さく笑った。
すると、うさぎさんも少しだけ困ったように笑う。
「瞳さんは、今日はお買い物ですか?」
「ええ。少しだけ」
「お気をつけて」
「ありがとう」
私はエントランスを出る。
振り返ると、うさぎさんはいつものようにそこに立っていた。
住人を見送り。
帰ってくる人を迎え。
何かあれば、すぐに動く。
そんな姿を見ていると、このマンションそのものを見守っているようにも思える。
私はそんなことを考えながら、山道をゆっくり歩き始めた。
今日もまた、いつもの一日が始まる。
それぞれの家族が、それぞれの場所へ向かって。
そして、いつかまた。
このマンションへ帰ってくる。
そんな日常が、私は好きだった。




