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山の上のマンション 〜うさぎの管理人と、ひとり暮らしの瞳さん〜  作者: まーサンタ


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第6話


 朝の山は、少しだけ冷えていた。


 私は一階の花壇にしゃがみ込み、伸びすぎた草を一本ずつ抜いていた。


「おはようございます、うさぎさん」


 声をかけられて顔を上げる。


 四階に住む田中さんだった。


 茶色い毛並みの、穏やかな犬の男性である。


 朝の散歩が日課らしく、いつも同じくらいの時間に一階へ降りてくる。


「おはようございます、田中さん」


「今日も早いですねえ」


「田中さんも、いつも早いではありませんか」


「私は散歩ですから。うさぎさんはお仕事でしょう?」


 そう言って、田中さんは花壇を覗き込んだ。


「この花、きれいですね」


「ええ。先日、少し植え替えました」


「名前は?」


「……申し訳ありません。私も正確には」


「そうですか」


 田中さんは花を見つめながら、少し考えた。


「じゃあ、今度私も調べておきます」


「ありがとうございます」


「うさぎさんの仕事を増やしてはいけませんからね」


 そう言って笑う。


 田中さんは花の名前には詳しくない。


 けれど、花壇の様子が少し変わったことには、よく気づく人だった。


「では、散歩に行ってきます」


「お気をつけて」


「うさぎさんも、腰を痛めないように」


 田中さんはそう言い残して、ゆっくりと外へ歩いていった。


 私はその背中を見送り、少しだけ笑った。


 ああいう人なのだ。


 余計なことは言わない。


 けれど、いつも誰かのことを気にしている。


 昼前。


 私は二階へ向かっていた。


 廊下の照明を確認するためである。


「うさぎさん」


 後ろから声がした。


 振り返ると、三階に住む小林さんが立っていた。


 三毛猫の女性で、マンションの中で起きた小さな変化によく気づく。


 そして、気づいたことは誰かに伝えずにはいられない人でもあった。


「こんにちは、小林さん」


「こんにちは。ちょうどよかったわ」


 小林さんは、少し身を乗り出して話しかけてくる。


「三階の廊下の照明、少し暗くない?」


「確認しておきます」


「やっぱり? 昨日からそんな気がしていたの」


「ありがとうございます。教えていただいて助かります」


「それからね――」


 小林さんは、さらに声を落とした。


「昨日、四階の田中さんが花壇を見ていたでしょう?」


「ええ」


「また花の名前を聞いてたわよ」


「そうでしたか」


「好きなのよね、あの人」


 小林さんは楽しそうに笑った。


「でも、名前は全然覚えないの」


「田中さんらしいですね」


「でしょう?」


 二人で笑う。


 小林さんは噂話が好きだった。


 けれど、誰かを悪く言いたいわけではない。


 住人の様子をよく見ていて、困っている人がいれば、誰より早く気づく。


 言葉が多いのは、それだけ人を気にかけているからなのだろう。


「そういえば、うさぎさん」


「はい」


「昨日も遅くまで管理人室にいたでしょう?」


「……見ていらしたのですか」


「ええ。三階の窓から明かりが見えたもの」


「少し記録を整理していただけです」


「少し、ねえ」


 小林さんは疑わしそうに目を細めた。


「ちゃんと休憩している?」


「はい」


「本当?」


「……善処します」


「もう。田中さんにも同じことを言われるわよ」


 小林さんは呆れたように言った。


 けれど、その声には心配が混じっていた。


「気をつけます」


「そうしてちょうだい」


 小林さんは満足そうに頷いた。


 このマンションには、こういう会話がよくある。


 大きな出来事ではない。


 けれど、誰かが誰かを見ている。


 それだけで、建物の中は少し温かくなる。


 昼過ぎ。


 エントランスへ戻ると、エレベーターの扉が開いた。


 中から降りてきたのは、瞳さんだった。


「こんにちは、いなばさん」


「こんにちは、瞳さん」


 瞳さんの手には、小さな紙袋があった。


「今日は何でしょう?」


「クッキーを焼いたの」


「それは……」


 私が言葉を続ける前に、瞳さんは紙袋から小さな包みを取り出した。


「昨日のお礼も兼ねて。よかったら召し上がって」


「ありがとうございます」


 受け取る。


 ほんのり甘い香りがした。


「休憩のときにいただきます」


「ちゃんと休憩してくださいね」


「はい」


「本当でしょうか?」


 瞳さんが少しだけ目を細める。


「……善処します」


「もう」


 小さく笑う瞳さん。


 そこへ、小林さんがやってきた。


「あら、いい匂い」


「こんにちは、小林さん」


「こんにちは。瞳さん、それはクッキー?」


「ええ」


「まあ、いいわねえ」


 小林さんが袋を覗き込む。


 瞳さんは少し考えてから笑った。


「では、あとで一緒にいただきましょうか」


「本当に?」


「もちろん」


「じゃあ、お茶を用意しておくわ」


 小林さんは嬉しそうに言った。


「うさぎさんも来る?」


「私は仕事が……」


「休憩ですよ」


 瞳さんがすぐに言った。


「そうそう。休憩」


 小林さんも頷く。


 私は思わず耳を下げた。


「……では、少しだけ」


「最初からそう言えばいいのに」


 小林さんと瞳さんの笑い声が、エントランスに響いた。


 午後。


 私は花壇の前に戻った。


 風が山からゆっくりと下りてくる。


 田中さんが花を見て、小林さんが照明の変化に気づき、瞳さんが焼いたクッキーを誰かに分ける。


 特別なことではない。


 けれど、こういう小さな出来事が、毎日の暮らしを作っている。


 人も、動物も。


 ここではみんな、それぞれの生活を送っている。


 そして、ほんの少しだけ。


 誰かのことを気にかけながら暮らしている。


 田中さんは、言葉少なに誰かを気遣う。


 小林さんは、たくさんの言葉で誰かをつなぐ。


 瞳さんは、手作りのクッキーを分ける。


 私は、そんな住人たちが暮らす場所を整えている。


 それぞれのやり方は違っても、向いている方向は同じなのかもしれない。


 私は花壇の土をならし、立ち上がった。


「さて……次は照明ですね」


 今日もまだ、仕事は残っている。


 けれど、不思議と足取りは軽かった。

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