第10話
朝、窓を開けると、少し冷たい風が入ってきた。
私は思わず肩をすくめる。
いつの間にか、山の空気が秋らしくなっていた。
夏の頃は朝から聞こえていた蝉の声も、今ではほとんど聞こえない。
代わりに、遠くから鳥の声が聞こえてくる。
私は紅茶を淹れ、窓辺の椅子に座った。
季節は、いつも静かに変わっていく。
十年前も。
そして、今年も。
朝食を終え、私は一階へ降りることにした。
小さな買い物袋を持って、部屋を出る。
エレベーターに乗り、一階のボタンを押す。
十五階から一階までは、少し時間がかかる。
途中で誰かが乗ってくることもあるけれど、今日は誰もいなかった。
扉が開く。
エントランスには、朝の光が差し込んでいた。
「おはようございます、瞳さん」
声をかけてきたのは、飯田さんだった。
「あら、おはようございます」
最近引っ越してきたばかりの若いご夫婦。
最初の頃は、動物の住人を見るたびに少し驚いていたけれど、今ではだいぶ慣れてきたようだった。
「今日はお早いですね」
「妻が、近くのお店を見てみたいと言いまして」
「それはいいですね」
「この辺り、まだ知らない場所が多くて」
飯田さんが笑う。
「私もこの街に長く住んでいるわけではありませんけれど、駅のほうへ行けば、いろいろありますよ」
「ありがとうございます」
そこへ、エレベーターの扉が開いた。
「おはようございます」
小林さんだった。
「おはようございます」
小林さんは飯田さん夫妻を見ると、すぐに話しかけた。
「あら、お出かけ?」
「はい。少し街を見てこようかと」
「それならね――」
小林さんの話が始まる。
私は思わず微笑んだ。
小林さんは、この街のことなら何でも知っている。
商店街の店。
病院の場所。
季節ごとの催し。
近所の美味しいパン屋さんまで。
「それからね、駅前の――」
「小林さん」
私は思わず口を挟んだ。
「はい?」
「全部教えていたら、お二人が出発できませんよ」
「あら」
小林さんが笑う。
「そうね」
飯田さん夫妻も笑っていた。
その後、私は買い物へ向かった。
山を下りる道を歩いていると、前から田中さんが戻ってきた。
「おはようございます、瞳さん」
「おはようございます、田中さん」
「今日は少し寒いですね」
「ええ」
田中さんは空を見上げる。
「そろそろ花壇も秋の準備でしょうか」
「そうですね」
「うさぎさんに手伝いを頼まないと」
「きっと、もう考えていると思いますよ」
「さすがですねえ」
田中さんは笑った。
「ところで、最近の飯田さんご夫妻、ずいぶん馴染んできましたね」
「ええ。最初は驚いていらしたけれど」
「動物の住人が珍しい街もありますからね」
「そうですね」
「でも、もう田中さんを見ても驚かないでしょう?」
「たぶん」
私たちは顔を見合わせて笑った。
買い物を終えてマンションへ戻ると、エントランスの前に小さな人影があった。
佐田さんの息子さんだった。
手には、小さな葉っぱを持っている。
「こんにちは」
「こんにちは、瞳さん!」
「どうしたの?」
「これ、見つけたの」
差し出されたのは、赤く色づき始めた葉だった。
「きれいね」
「学校の帰りに見つけた!」
「秋の葉っぱね」
「うん!」
そこへ、お母さんがやってきた。
「すみません。なかなか帰らなくて」
「いいんですよ」
「瞳さんに見せたかったんだって」
男の子は嬉しそうに頷いた。
「大切に持って帰るのよ」
「うん!」
親子はエレベーターへ向かっていった。
私は買い物袋を持ち直した。
すると、エントランスの奥から、聞き慣れた声がした。
「瞳さん、お帰りなさい」
うさぎさんだった。
「ただいま、いなばさん」
「お荷物、重くありませんか?」
「大丈夫ですよ」
「そうですか」
うさぎさんは、それ以上何も言わなかった。
けれど、私が持っている袋を見ている。
「……少しだけ、持っていただけます?」
「もちろんです」
うさぎさんは自然に袋を受け取った。
「ありがとうございます」
「いえ」
二人でエレベーターへ向かう。
「今日は秋らしい風でしたね」
「ええ」
「花壇も、そろそろ植え替えを考えています」
「田中さんも気にしていましたよ」
「そうでしたか」
「飯田さんご夫妻も、だいぶこの街に慣れてきたようです」
「それは何よりです」
エレベーターが到着する。
扉が開く。
私たちは中へ入った。
「いなばさん」
「はい」
「このマンション、住人が増えると少しずつ雰囲気が変わりますね」
「そうですね」
うさぎさんは静かに答えた。
「でも、変わらないものもあります」
「何でしょう?」
「朝になれば誰かが出かけて、夕方になれば誰かが帰ってくることです」
私は笑った。
「確かに」
エレベーターが上へ向かう。
窓の外には、秋の山が見えていた。
赤や黄色に変わるには、まだ少し早い。
けれど、季節はもう動き始めている。
人も、動物も。
新しく来た人も、ずっとここにいる人も。
それぞれの毎日を過ごしながら、少しずつ同じ場所の時間を重ねていく。
十五階に着いた。
扉が開く。
「ありがとうございます、いなばさん」
「どういたしまして」
私は袋を受け取った。
「それでは、また」
「はい」
部屋へ戻る前に、私は一度だけ振り返った。
うさぎさんは、もうエレベーターの中にいる。
扉が静かに閉まった。
私は窓を開ける。
冷たい秋の風が、部屋の中へ入ってきた。
今日も、いつもの一日だった。
けれど、昨日とは少し違う。
そんな小さな違いを重ねながら、季節は進んでいくのだろう。
私は紅茶を淹れ直し、窓辺の椅子に座った。
山の向こうへ、ゆっくりと午後の光が傾いていた。




