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山の上のマンション 〜うさぎの管理人と、ひとり暮らしの瞳さん〜  作者: まーサンタ


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第11話


朝の空気が、少しだけ冷たくなっていた。


管理室の窓を開けると、山の向こうから流れてくる風が、カーテンを静かに揺らした。


私は窓を閉め、一階へ向かった。


エントランスを掃き、ガラスを拭く。


秋になると、外から入ってくる葉が少し増える。


まだ本格的な落ち葉の季節ではない。


それでも風の強い朝には、赤や黄色の葉が数枚、エントランスまで入り込んでくる。


私は箒を動かしながら、それらを拾い集めた。


そのときだった。


「おはようございます、うさぎさん」


振り返ると、犬の田中さんが立っていた。


茶色い毛並みの田中さんは、いつもの朝の散歩の途中らしい。


「おはようございます。今日は少し冷えますね」


「そうですねえ。犬にはちょうどいいくらいですが」


田中さんは外の花壇へ目を向けた。


「花壇も、少し変わってきましたね」


「ええ。夏の花が終わってきましたから」


「なるほど」


田中さんは花壇を眺めながら、少し考え込んだ。


「……やっぱり、花の名前は覚えられませんね」


私は思わず笑った。


「無理に覚える必要はありませんよ」


「でも、管理人さんの仕事を増やさないためにも」


以前にも聞いた言葉だった。


「お気持ちだけで十分ですよ」


「そうですか」


田中さんは照れたように笑った。


「じゃあ、今日も散歩に行ってきます」


「お気をつけて」


「はい。それでは」


犬の田中さんが外へ出ていく。


私はその背中を見送ってから、また掃除に戻った。


しばらくして、エレベーターの扉が開いた。


「うさぎさん」


今度は猫の小林さんだった。


三階に住む小林さんは、今日も周囲をよく見ている。


「おはようございます」


「おはようございます。ねえ、管理人さん」


「はい」


「昨日の夜、管理室の電気、遅くまでついていたでしょう」


私は少しだけ黙った。


「……見られていましたか」


「見えますもの」


小林さんは当然のように言った。


「仕事をするのはいいですけど、ほどほどにしてくださいね」


「気をつけます」


「その返事、昨日も聞いた気がします」


「そうでしたか」


「そうですよ」


猫の小林さんは、くすっと笑った。


それから、外の花壇へ目を向ける。


「そういえば、田中さんがまた花の話をしていましたよ」


「今朝も来られました」


「やっぱり」


小林さんは楽しそうに笑った。


「なんだか、みんな管理人さんの仕事を気にしていますよね」


「ありがたいことです」


「でも、管理人さんも住人なんですからね」


そう言って、小林さんはエレベーターに戻った。


「じゃあ、私は三階に戻ります」


「はい。お気をつけて」


「うさぎさんも、無理しないでくださいね」


「ありがとうございます」


エレベーターの扉が閉まる。


静かになったエントランスで、私は一人になった。


管理する側と、管理される側。


以前は、そんなふうに考えていた。


けれど、このマンションで長く暮らしていると、それだけではないのだと思うようになった。


誰かが誰かを気にかける。


それは、特別なことではない。


ただ、それだけのことなのだ。


昼前。


エントランスの外から、聞き慣れた足音が近づいてきた。


ガラス越しに見ると、瞳さんだった。


両手に買い物袋を提げている。


私は入口まで出た。


「お帰りなさい、瞳さん」


「ただいま、いなばさん」


瞳さんは買い物袋を持ち直した。


「今日は、少し買いすぎてしまいました」


「お持ちしましょうか?」


「まだ大丈夫ですよ」


いつもの返事だった。


けれど、今日は袋が二つある。


「では、一つだけ」


「……そうですね。お願いします」


瞳さんは片方の袋を差し出した。


私は受け取った。


「ありがとうございます」


「これくらいは、管理人の仕事ですから」


「そう言うと思いました」


瞳さんが笑う。


二人でエレベーターへ向かった。


扉が開き、乗り込む。


「今日は何を買われたんですか?」


「食材と、お茶です。それから……」


瞳さんが少しだけ間を置いた。


「お菓子も買いました」


「やはり」


「やはり?」


「いえ。なんとなく、そんな気がしました」


瞳さんは小さく笑った。


エレベーターが十五階へ上がっていく。


やがて、扉が開いた。


二人で降り、瞳さんの部屋の前まで歩く。


私は買い物袋を渡した。


「ありがとうございました」


「いえ」


瞳さんが鍵を開ける。


扉の向こうから、午後の柔らかな光が差し込んでいた。


「いなばさん」


「はい」


「もし、お時間があるなら……」


瞳さんが少しだけ振り返った。


「お茶、いかがですか?」


私は時計を思い浮かべた。


急ぎの仕事はない。


「では、少しだけ」


「はい。少しだけ」


私は部屋へ入った。


窓の外では、秋の風が山の木々を揺らしている。


テーブルには、いつもの茶器が用意された。


「今日は、新しい茶葉なんです」


「それは楽しみですね」


瞳さんがお茶を淹れる。


湯気が静かに立ち上った。


カップを受け取り、一口飲む。


温かい。


外の冷たさが、少しずつ遠ざかっていく。


「おいしいですね」


「よかったです」


しばらく、二人とも窓の外を眺めていた。


そのとき、私はポケットに入れていたものを思い出した。


「そういえば」


私は赤い葉を一枚、取り出した。


「まあ」


瞳さんが目を細める。


「きれいですね」


「今朝、花壇のところに落ちていたんです」


「秋ですね」


「ええ」


瞳さんは葉を眺めたあと、窓の外を見る。


山の木々も、少しずつ色を変え始めている。


「このマンションにいると、季節がよく分かりますね」


「そうですね」


朝は少し冷えて、昼はまだ暖かい。


夕方になれば、山から風が下りてくる。


毎年繰り返される、ごく普通の変化。


けれど、住人たちの暮らしも、その変化と一緒に少しずつ動いている。


犬の田中さんは、花壇を気にする。


猫の小林さんは、管理人の働きすぎを気にする。


子どもたちは、山で拾ったものを誰かに見せる。


そして瞳さんは、今日も買い物から帰ってきて、お茶を淹れている。


私はカップを両手で包んだ。


こういう一日が、私は好きだった。


特別なことは何もない。


それでも、誰かと誰かの間に、小さな気遣いが残っている。


それだけで、この場所は十分に温かい。


窓の外で、赤い葉が一枚、風に揺れた。


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