第12話
朝、目を覚ますと、部屋の中がいつもより少し静かに感じられた。
窓の外を見る。
山の木々が、朝の光を受けて淡く色づいている。
秋が深くなってきた。
私はカーテンを開け、窓を少しだけ開けた。
冷たい風が頬に触れる。
「寒くなりましたね」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
キッチンへ行き、お湯を沸かす。
いつものようにお茶を淹れ、窓際の椅子に座った。
山の上の朝は、時間の流れがゆっくりしている。
遠くの街では、もう人が動き始めているのだろう。
けれど、この部屋にはまだ静かな時間が残っていた。
お茶を飲み終えると、私は外出の準備をした。
今日は買い物の予定はない。
少し散歩をしてから、戻ってくるつもりだった。
小さなバッグを持ち、部屋を出る。
廊下を歩き、エレベーターに乗る。
十五階から一階へ下りると、エントランスには何人かの住人がいた。
「おはようございます、瞳さん」
声をかけてきたのは、飯田さん夫妻だった。
「おはようございます」
二人とも、以前よりマンションの生活に慣れてきたようだった。
「今日はお休みなんですか?」
私が尋ねると、飯田さんが頷いた。
「はい。今日は二人で、この辺りを少し歩いてみようと思って」
「いいですね」
美和さんが山の方を見た。
「最近、紅葉がきれいですよね」
「ええ。もう少しすると、もっと色が変わりますよ」
「楽しみです」
二人が顔を見合わせる。
その様子を見ていると、こちらまで嬉しくなった。
少し前まで、二人はこのマンションの動物の住人たちを珍しそうに見ていた。
今では、すっかり自然になっている。
そこへ、外から声がした。
「おはようございます」
犬の田中さんだった。
「おはようございます、田中さん」
「おや、飯田さんご夫妻。今日はお出かけですか?」
「はい。少し散歩を」
「それなら、あっちの道がおすすめですよ」
田中さんは山の斜面へ続く道を指差した。
「少し坂がありますけど、今の時期は葉っぱがきれいです」
「ありがとうございます」
飯田さんが嬉しそうに頷く。
「ただし」
田中さんが真面目な顔をした。
「帰りは坂道ですから、少し疲れます」
美和さんが笑った。
「そこまで教えてくださるんですね」
「私は毎朝歩いていますから」
そう言って、田中さんは胸を張った。
私は思わず笑った。
「では、私も少し歩いてきます」
「お気をつけて」
私は二人に挨拶をして、エントランスを出た。
山の空気は冷たかった。
けれど、歩いているうちに体が少しずつ温まってくる。
田中さんが教えてくれた道を歩く。
道の両側には木々が並び、ところどころに色づいた葉が見える。
赤。
黄色。
まだ緑のままの葉もある。
同じ木でも、色が変わる速さが違う。
私は足元に落ちていた葉を一枚拾った。
しばらく眺めてから、また歩き始めた。
少し先に、小さなベンチがあった。
私はそこに腰を下ろした。
山の向こうに、街が見える。
ここから見ると、いつもの街が少し違って見えた。
そのときだった。
「瞳さん?」
振り返ると、飯田さん夫妻が歩いてきた。
「まあ。こちらに来たんですね」
「はい」
飯田さんが笑う。
「田中さんに教えてもらった道、歩いてきました」
「どうでした?」
「思ったより坂でした」
美和さんが笑った。
「でも、きれいですね」
二人もベンチの近くまで来た。
三人で山の景色を見る。
「前に住んでいたところでは、こういう場所を歩くことはあまりなかったんです」
飯田さんが言った。
「山の上のマンションというのも、最初は少し変わった感じがしました」
「そうでしょうね」
「でも」
美和さんが言った。
「今は、朝に鳥の声が聞こえるのも、犬の田中さんに会うのも、猫の小林さんと話すのも、なんだか普通になってきました」
私は笑った。
「それはよかったです」
「この前なんて」
飯田さんが続ける。
「エレベーターを待っていたら、猫の小林さんが先に乗っていて」
「ええ」
「何階ですかって聞いたら、普通に『三階』って答えてくれて」
美和さんが笑い出した。
「そのとき、飯田さん、一瞬固まってたじゃない」
「いや……最初のころなら驚きますよ」
三人で笑った。
少しして、私たちはマンションへ戻ることにした。
帰り道、エントランスの前に管理人さんの姿が見えた。
「こんにちは、いなばさん」
「こんにちは、瞳さん」
うさぎの管理人さんは、花壇の手入れをしていた。
「今日はお散歩でしたか?」
「ええ。飯田さんご夫妻と少し」
「それはよかったですね」
飯田さんが頭を下げる。
「田中さんに、いい道を教えてもらいました」
「そうでしたか」
いなばさんは嬉しそうに笑った。
「田中さんは、花の名前はなかなか覚えられないのですが、道のことはよくご存じなんです」
「そうなんですね」
飯田さん夫妻が笑う。
そのとき、エレベーターが一階に到着した。
扉が開く。
「では、私は上へ戻ります」
「お気をつけて」
私はエレベーターに乗り込んだ。
十五階へ上がる。
部屋に戻ると、窓を開けた。
少し前より、山の色が濃くなっている。
私は朝に拾った葉を、テーブルの上に置いた。
それからお茶を淹れる。
カップを手にして、窓の外を見る。
このマンションには、いろいろな人が住んでいる。
人間もいる。
動物もいる。
家族で暮らしている人もいれば、一人で暮らしている人もいる。
仕事へ行く人。
学校へ行く子ども。
散歩をする人。
買い物へ出かける人。
そして、毎日この建物を整えてくれる管理人さん。
それぞれ違う生活をしている。
それでも朝になれば、エレベーターで顔を合わせる。
「おはようございます」と言葉を交わす。
夕方になれば、「お帰りなさい」と声をかける。
それだけで、少しだけ安心する。
私はお茶を一口飲んだ。
窓の外で、秋の風が山を渡っていく。
今日も、静かな一日だった。
けれど。
静かな一日の中にも、誰かとの小さな会話がある。
そのことが、私は好きだった。




