第13話
昼過ぎ。
私は一階のエントランスで、掲示板の張り替えをしていた。
朝の仕事をひと通り終え、午後の作業に取りかかる時間だった。
エントランスには、昼間の柔らかな光が差し込んでいる。
外から風が入り、掲示板の端に置いていた紙が少し揺れた。
私は紙を押さえながら、掲示物の位置を整える。
そのとき。
「こんにちは、うさぎさん」
聞き慣れない時間の声がした。
振り返る。
そこにいたのは、梟の尾形さんだった。
若い男性で、このマンションでは珍しく、昼間に姿を見ることが少ない住人だった。
「こんにちは、尾形さん」
私は時計を見た。
午後二時を少し過ぎている。
「今日はまだ寝ていなくてよろしいのですか?」
尾形さんは少し笑った。
「はい。今日から久しぶりのまとまった休みなので、少し出かけようかと」
「そうでしたか」
尾形さんは普段、夜勤の仕事をしている。
昼間に眠り、夕方から準備をして、夜になってから仕事へ向かう。
そのため、昼間のエントランスで会うことはほとんどない。
「お休みは、どちらへ?」
「まだ決めてないんです。街のほうへ行って、普段行かない店でも見てみようかなと思っています」
「それはいいですね」
「ずっと夜の生活なので、昼間の街を歩くのも久しぶりで」
尾形さんは外を見た。
「こんなに明るかったんだなって、少し変な感じがします」
私は笑った。
「このマンションも、昼と夜では少し違って見えますよ」
「そうかもしれませんね」
尾形さんがエントランスを見回した。
「昼間は、こんなに人がいるんですね」
「ええ」
「いつも夜に帰ってくるので、あまり会わない人も多いんですよ」
「そうでしょうね」
私は頷いた。
マンションには、朝に活動する人もいれば、昼に活動する人もいる。
夕方から仕事へ向かう人もいる。
そして、夜が始まってから家を出る人もいる。
生活の時間は、それぞれ違う。
「では、行ってきます」
尾形さんが玄関へ向かう。
「お気をつけて」
「ありがとうございます」
扉が開き、尾形さんは昼の街へ出ていった。
私はその後ろ姿を見送った。
いつもなら、まだ眠っている時間。
今日は珍しく、昼の世界に出てきたのだ。
私は掲示板に向き直った。
そして、何気なく時計を見る。
午後二時半。
まだ一日は長い。
けれど、尾形さんにとっては、いつもなら眠っている時間なのだと思うと、不思議な気持ちになった。
数日後。
夜。
マンションの中は、昼間とはまるで違う静けさに包まれていた。
時刻は、夜の十一時を過ぎている。
私は管理室で、今日の記録を整理していた。
昼間に比べれば、することは少ない。
それでも、確認しておきたいことはいくつかある。
共用部分の照明。
ゴミ置き場。
エントランス。
そして、最後にもう一度、館内を見て回る。
私は管理室を出た。
廊下には、人の気配がほとんどない。
エレベーターの音も、昼間ほど聞こえない。
一階へ戻ってくると、エントランスの自動扉が開いた。
私は顔を上げた。
そこに、尾形さんがいた。
夜勤へ向かうところだった。
「こんばんは、尾形さん」
「こんばんは、うさぎさん」
尾形さんは仕事用のバッグを肩に掛けている。
昼間とは、少し雰囲気が違って見えた。
これから仕事へ向かう人の顔だった。
「いつも遅い時間からお仕事、ご苦労様です。お気をつけて」
「ありがとうございます」
尾形さんは小さく頭を下げた。
「うさぎさんも、こんな時間までお仕事なんですね」
「ええ。少し確認することがありまして」
「お互い、夜に働いてますね」
「そうですね」
二人で少し笑った。
昼間なら、多くの住人が行き交うエントランス。
けれど今は、二人だけだった。
「それでは、行ってきます」
「はい。お気をつけて」
尾形さんが扉を開ける。
冷たい夜の風が、エントランスへ入ってきた。
尾形さんは一度振り返り、軽く会釈をしてから、夜の道へ歩いていった。
私はその背中を見送った。
扉が閉まる。
また静かになった。
時計を見る。
午後十一時二十分。
昼間の住人たちは、もう眠っている時間だろう。
犬の田中さんも。
猫の小林さんも。
佐田さんの家族も。
飯田さん夫妻も。
そして、十五階の瞳さんも。
みんな、それぞれの部屋で一日を終えている。
けれど、このマンションには、まだ一日を終えていない住人がいる。
夜勤へ向かう尾形さん。
そして、もう少しだけ仕事を続ける私。
昼間には見えない時間にも、ここで暮らしている人がいる。
私は管理室へ戻った。
窓の外を見る。
山の夜は暗い。
街の明かりだけが、遠くに小さく見えている。
やがて、時計の針が静かに進んでいく。
誰もいないと思っていた夜にも、誰かがいる。
「お気をつけて」
先ほどの言葉を、私はもう一度心の中で繰り返した。
そして、明日の朝を迎えるために、残った仕事へ戻った。




