第2話
朝食を終えた瞳は、食器を片付けると、財布の入った小さなバッグを手に取った。
「卵と牛乳、それから紅茶……」
買うものを小さな声で確認する。
玄関へ向かい、靴を履く。
鍵をかけて部屋を出ると、十五階の廊下には朝の静けさが広がっていた。
この階にある部屋は、瞳の部屋だけ。
窓の向こうでは、山の木々が風に揺れている。
「今日もいいお天気ね」
瞳はエレベーターのボタンを押した。
ほどなくして扉が開く。
中には誰もいない。
瞳が乗り込み、一階のボタンを押す。
扉が閉まり、エレベーターがゆっくりと下降していく。
九階で止まった。
扉が開くと、一人の女性が立っていた。
「あら、おはようございます、瞳さん」
「おはようございます、佐藤さん」
六階に住む佐藤さんだった。
「お出かけですか?」
「ええ。少し買い物に」
「私もこれから下へ行くところなんです」
二人は並んでエレベーターに乗った。
「そういえば、今朝もうさぎさんを見かけましたよ」
「まあ。もうお仕事を?」
「植え込みの手入れをしていました」
「本当に働き者ですね」
瞳は微笑んだ。
「昨日も遅くまで一階の掲示板を直していたそうですよ」
「そうだったんですか」
「瞳さん、うさぎさんとは長いお付き合いなんですよね?」
「ええ。ずいぶん長くなりました」
瞳はそう答えた。
それ以上は話さず、エレベーターの階数表示を眺める。
一階に到着すると、扉が開いた。
「それでは、また」
「はい。お気をつけて」
佐藤さんが先に降りる。
瞳も続いてエントランスへ向かった。
外へ出ると、少し冷たい風が頬を撫でた。
マンションの正面にある植え込みでは、白い毛並みの雄兎がしゃがみ込んでいる。
小さな剪定ばさみを手に、伸びた枝を丁寧に整えていた。
「うさぎさん」
「おや、瞳さん」
うさぎさんが顔を上げる。
「お出かけですか?」
「ええ。買い物に」
「では、お気をつけて」
「ありがとうございます」
瞳は少し歩いてから、振り返った。
「いなばさん」
「はい?」
「お昼までには、少し休んでくださいね」
うさぎさんは、ぱちりと目を瞬いた。
「これはまた……」
「昨日も遅くまでお仕事をしていたと聞きましたよ」
「誰からお聞きになったのでしょう?」
「さあ?」
瞳が楽しそうに笑う。
「マンションは広いですから」
「なるほど」
うさぎさんも笑った。
「では、お言葉に甘えて、適度に休むことにいたしましょう」
「そうしてください」
瞳は今度こそ、山を下る道へ歩き始めた。
すると、背後から声がした。
「瞳さん!」
振り返る。
うさぎさんが手を振っている。
「紅茶をお忘れなく!」
「あら」
瞳は笑った。
「ちゃんと覚えていますよ」
山の上のマンションでは、今日もそれぞれの一日が始まっていく。
特別なことは何もない。
けれど、そんな一日が、瞳は嫌いではなかった。




