第1話
朝の山は、街より少しだけ静かだった。
窓を開けると、ひんやりとした風が部屋へ入ってくる。
「まあ……今日はいいお天気ね」
瞳・シュミットは、カーテンをゆっくりと開いた。
十五階。
このマンションで一番高い場所にある、たった一つの部屋。
窓の向こうには、山の斜面に広がる木々と、その先に小さく見える街並みがある。
十年前から、瞳はここで一人暮らしをしていた。
夫のダニエルが亡くなってからも、この部屋を離れることはなかった。
広すぎると思ったことはある。
静かすぎると思ったこともある。
それでも朝になると、いつものようにカーテンを開ける。
それが、瞳の毎日だった。
「さて……朝食にしましょうか」
キッチンへ向かおうとした、そのとき。
コンコン。
玄関の扉を軽く叩く音がした。
「はい?」
「瞳さん、おはようございます」
聞き慣れた声だった。
扉を開ける。
そこには、白い毛並みを整えた雄兎が立っていた。
マンションの管理人。
住人たちからは、いつも「うさぎさん」と呼ばれている。
「おはようございます、うさぎさん」
「今朝は冷えますね」
「ええ。でも、気持ちのいい朝です」
「それは何よりです」
うさぎさんは、小さな台車を押していた。
台車には、掃除道具と植木鉢がいくつか載っている。
「今日は何を?」
「一階の植え込みを少し手入れしようと思いまして。その前に、十五階の廊下を掃除しておこうかと」
「まあ。朝から大変ですね」
「仕事ですから」
そう言って、うさぎさんは穏やかに笑った。
瞳も微笑む。
「それにしても、いつもよく働きますね」
「そう言っていただけると、管理人冥利に尽きます」
「では、無理はしないでくださいね。いなばさん」
その呼び方を聞いた瞬間、うさぎさんの耳がほんの少しだけ動いた。
「……はい、瞳さん」
住人たちは、彼を「うさぎさん」と呼ぶ。
けれど、瞳は二人きりのときだけ「いなばさん」と呼んでいた。
「朝食を作りますけれど、コーヒーはいかがです?」
「ありがとうございます。ですが、これが終わってからいただきましょう」
「そうですか」
「では、また後ほど」
「ええ」
扉が閉まる。
廊下から、台車の小さな車輪の音が遠ざかっていく。
瞳はしばらく扉を眺めてから、キッチンへ戻った。
窓の外では、山の木々が風に揺れている。
いつもと変わらない朝。
特別なことなんて何もない。
けれど――。
「今日も、いい一日になりそうね」
瞳はそう呟いて、コーヒーを淹れ始めた。
一方、その頃。
十五階の廊下では、うさぎさんが窓を開けていた。
冷たい風が、長い耳を揺らす。
「さて……今日も始めましょうか」
山の上のマンションの一日は、こうして静かに始まった。




