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山の上のマンション 〜うさぎの管理人と、ひとり暮らしの瞳さん〜  作者: まーサンタ


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第17話


朝の賑やかさが過ぎると、マンションは少しずつ静かになっていった。


先ほどまで聞こえていた子どもたちの声も、もう聞こえない。


私はエントランスの掃除を続けていた。


床を掃き、ガラスを拭く。


いつもの仕事だ。


けれど、今朝はいつもより少しだけ違って見えた。


「おはようございます」


そう言って出ていった人たち。


「行ってらっしゃい」


そう声をかけた子どもたち。


朝の時間には、いろいろな声がある。


私はそんなことを考えながら、最後に床を確認した。


「これでよし、と」


管理室へ戻ろうとしたところで、外から足音が聞こえてきた。


「おや」


茶色い毛並みが見える。


犬の田中さんだった。


「お帰りなさい、田中さん」


「ただいま戻りました」


田中さんはエントランスに入ると、少し立ち止まった。


「今日はいつもより少し長く歩いてきました」


「そうでしたか」


「朝は空気が気持ちよかったので」


「それはよかったですね」


田中さんが窓の外を見る。


「そういえば、今朝の散歩で花を見つけたんです」


「花ですか?」


「ええ。道の脇に、小さな花が咲いていました」


私は少し笑った。


「名前は分かりましたか?」


田中さんは困ったように首を傾げた。


「それが……まだ分からなくて」


「そうでしたか」


「帰ってから調べてみたんですが、似たような花がたくさん出てきまして」


「花の名前は難しいですね」


「はい」


田中さんは苦笑した。


「でも、咲いている場所は覚えました」


「それなら十分ではないでしょうか」


「そうですか?」


「ええ。名前を知らなくても、そこに花が咲いていることを知っている。それだけでも大切なことだと思います」


田中さんは少し考えてから笑った。


「そうですね」


「それに、私も花の名前には詳しくありませんから」


「管理人さんなのに?」


「管理人だからといって、何でも知っているわけではありませんよ」


二人で笑った。


「では、私は部屋へ戻ります」


「はい。お気をつけて」


田中さんはエレベーターへ向かっていった。


私はその姿を見送り、管理室へ戻った。


午前中の仕事をいくつか片づけていると、再びエントランスの扉が開いた。


「ただいま」


声の主は、猫の小林さんだった。


片手には買い物袋を持っている。


「お帰りなさい、小林さん」


「ただいま、うさぎさん」


小林さんは袋を少し持ち上げた。


「今日はちょっと買いすぎちゃったわ」


「よろしければ、お持ちしましょうか?」


「大丈夫です」


すぐに返事が返ってきた。


「今日は自分で持てますから。それより、うさぎさんこそ休んでください」


「私は大丈夫ですよ」


「その言葉、最近よく聞きますね」


小林さんがじっと私を見る。


「管理室にいる時間、長くありません?」


「そうでしょうか」


「そうですよ」


小林さんはため息をついた。


「瞳さんにも言われているでしょう?」


「……はい」


「なら、少しは聞いたほうがいいですよ」


「善処します」


「その返事も、最近よく聞きます」


小林さんが笑った。


「では、私は部屋に戻りますね」


「はい。お気をつけて」


小林さんはエレベーターへ向かっていった。


私はその背中を見送り、管理室へ戻った。


昼を少し過ぎた頃、建物の点検のために上の階へ向かった。


エレベーターに乗り、十五階へ。


扉が開く。


静かな廊下だった。


十五階には、瞳さんの部屋しかない。


私は必要な場所を確認していく。


窓まわりを確認していると、後ろから扉の開く音がした。


振り返る。


瞳さんだった。


「こんにちは、いなばさん」


「こんにちは、瞳さん」


瞳さんは私の手元を見た。


「お仕事ですか?」


「はい。少し確認することがありまして」


「そうですか」


瞳さんは穏やかに笑った。


「お昼はもう召し上がりました?」


「……まだです」


「まあ」


少しだけ呆れたような顔になる。


「またですか?」


「もう少しで終わりますので」


「お仕事も大切ですけれど、お昼も大切ですよ」


「はい」


「ちゃんと休んでくださいね」


「分かりました」


瞳さんは満足そうに頷いた。


「それなら安心しました」


「ありがとうございます」


瞳さんは部屋へ戻っていった。


私は残りの確認を終える。


そして、一階へ戻った。


管理室の椅子に座る。


時計を見る。


まだ午後の早い時間だった。


いつもなら、そのまま次の仕事を始める。


けれど今日は、少しだけ休むことにした。


椅子の背もたれに体を預ける。


窓の外を見る。


山の緑が、静かに揺れている。


朝は、あれほど賑やかだった。


今は誰もいないエントランスに、薄い午後の日差しが差し込んでいる。


同じ場所なのに、時間が変わるだけで雰囲気も変わる。


私はしばらく、その景色を眺めていた。


やがて、外から小さな足音が聞こえてきた。


「ただいまー!」


元気な声。


エントランスへ入ってきたのは、亀の佐田さんの息子さんだった。


「お帰りなさい」


「うさぎさん!」


息子さんが駆け寄ってくる。


「今日ね、学校で絵を描いたんだよ」


「それは素敵ですね」


「見て!」


ランドセルから、一枚の紙を取り出した。


そこには山とマンションが描かれていた。


「上手に描けていますね」


「マンションも描いたの!」


「ちゃんと十五階までありますね」


「うん!」


得意そうに笑う。


「お母さんに見せるんだ」


「きっと喜ばれますね」


「じゃあ、帰る!」


「はい。お気をつけて」


「またね!」


小さな背中がエレベーターへ向かっていく。


しばらくすると、また扉が開いた。


「ただいま!」


今度は、人間の相田さんの娘さんだった。


「お帰りなさい」


「うさぎさん、今日いたんだ!」


「はい。いつものように仕事をしていますよ」


「じゃあ、またね!」


「はい。また明日」


子どもたちは、それぞれの家へ帰っていく。


私はエントランスに一人残った。


朝は、


「行ってきます」


という声があった。


そして今は、


「ただいま」


という声がある。


同じ場所で、同じ一日が繰り返されている。


けれど、その一日は決して同じではない。


私は管理室の窓から、夕方へ向かう山を眺めた。


住んでいる人が帰ってくる。


それを迎える場所がある。


「行ってきます」と「ただいま」がある場所。


それを守ることも、管理人の仕事なのかもしれない。


私はそう思いながら、もう一度エントランスを見渡した。


そして、椅子から立ち上がった。


まだ今日の仕事は残っている。


けれど、その前に。


少しだけ休んだ。


静かな午後の管理室で、山の風が窓の外を通り過ぎていった。

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