奪い取った権利
「なんでもある」と告げたケルベロスの言葉と同時に現れた白い邸は、蜃気楼の如く不安定に揺れて見えた。
まるで触れたら消えそうな、そんな雰囲気を纏っている。
しかしエルディーテが近いて扉の取手に手を伸ばせば容易に掴めた。
不可解な現象だが、ここは冥府への入り口。
考えてみれば何が起きても不思議ではないのだ。
ごくり、と生唾を飲んでエルディーテは足を踏み入れる。
中をぐるりと見渡しながら、家を出る前の晩に交わした弟との会話を思い出す。
きっと冥界の噂を打ち明けられなければ、今ここに立っていたのはエルディーテでなく弟のディアンだっただろう。
――勝手をしてすまない、ディアン。
心の内で呟きながら、エルディーテは先へと進む。
謝罪の言葉が生まれたのは、冥府の入り口の噂を聞きつけたのはディアンだったからだ。
重々しく話を切り出した弟の決意を裏切って、エルディーテは今ここにいる。
王女サフィアを慕うのはディアンも同じ。
いや、独占欲を孕む愛という視点で見れば、その執心はエルディーテよりも強いものがあっただろう。
――――「人の魂は冥界へ行くだろう?そこで三叉路に到達すれば判決は直ぐに下る。レーテの水を飲まされ生まれ変わるか、煉獄タルタロスに連れていかれる。だが、魂は一定期間は滞留するらしい」
「……魂が滞留する?」
「あぁ。直ぐに裁かれるわけじゃないんだ。だからその間にケルベロスと交渉して、条件を満たせば冥王ハデスの許可のもと死者を地上に連れ帰り復活させることが出来る」
王女サフィアの国葬を終えた日の夜に、弟のディアンは重々しくエルディーテに打ち明けた。
その話を聞いた時、はじめは困惑した。
一体何を言っているのだろうと俄かに信じられず、しかし本当ならばどんなに良いかと耳を傾けた。
弟のディアン・グラウスは今年で二十三と、貴族であれば結婚していてもおかしくない年齢だが未婚の独身。
父の公爵家の仕事を手伝っており、将来はグラウス家を継ぐ予定だ。
姉弟中はむつまじく、エルディーテにとって可愛い弟である。
家訓である実力主義に倣い、公爵家の嫡男として非常に優秀で社交的に成長し、穏やかな物腰で経済の流れを読むのが上手い慧眼の紳士だ。
瞳の色は母に似て、品のある黒曜石のような重厚な輝きを放ち、柔らかな癖のある金髪はエルディーテと瓜二つ。
それらを取れば、見目麗しい優秀な公爵家の令息なのだが、しかしディアンは唯一欠点があった。
女遊びが激しいのだ。
未婚の令嬢や未亡人など数多の女性に粉をかけては、蜜に群がる獲物を捕食するように一夜を過ごす。
しかしそれは、サフィアへの当てつけだったのだろう。
幼少期からサフィアを想うディアンを知っているエルディーテとしては、その行為は苦悩から生まれる当てつけとしか思えなかった。
どんなに愛しても手に入らない。
それが一方的なものならば諦めもつくのだろうが、エルディーテの目から見ても二人の間には明確な何かがあった。
故に手に入れられないと分かり、代わりで穴を埋める。
そんな弟の危うい行動にしばしば苦言を申し入れたが、今までたおやかにあしらわれてきた。
愚かな弟は、サフィアの死に酷く取り乱した。
そして何かに気付いたように部屋に籠ると、食事も摂らず、誰も寄り付かせなくなった。
ディアンの部屋には一晩中灯りが灯っていて何をしているのかは分からなかった。
まさかこのまま籠り続けるのだろうかと一抹の不安がよぎったが、しかしその心配は杞憂に終わる。
襲撃事件から間もなくして執り行われた国葬に普段となんら変わらぬ出で立ちで参列していたのだ。
帝国では燃やした遺骨を川に流す風習がある。
ディアンはそれを固い眼差しで見つめサフィアを見送った。そしてエルディーテが職務から戻ってきた折に「話したいことがある」と言って、その日の晩にあの話をしたのだ。
ディアンがエルディーテに打ち明けた内容は、とあるご婦人から聞いたという噂だった。
十年ほど前に病気で亡くなった夫人の夫は、自分が死んだら冥界へ行って連れ戻してくれと生前告げていたらしい。
ケルベロスの条件を達成すれば、現世に帰れる。
そうすれば傷も病も消え、無垢な肉体で地上に戻れるのだと。
その夫人は結局、夫が死んだあと冥界に行くことはなかったが、その噂話を寝物語のようにディアンに語り聞かせたという。
「――それは誰かが作ったお伽噺の類では?」
突拍子もない話にエルディーテが問うと、ディアンは神妙な面持ちで首を振る。
「いいや。ここ近年で人伝で急速に広まった話らしい。蘇りのチャンスは病も傷も癒す。最初の一人はこの試練を広めるための証人として幸運にも無条件で地上に返してもらえたという」
「なるほど……生き証人がいると」
「いた、だな……隣国の音楽家だったようだ。実際、死んだはずの人間が蘇っているのを見た人がいるらしい」
「胡散臭いな……まさかディアン、信じるのか?」
「――あぁ、信じる」
荒唐無稽な話に疑義の目を向けて問えば、ディアンは深く頷いた。
そしてエルディーテに問う。
「姉さんは、信じたいと思わないのか?」
その言葉に僅かばかり目を瞠った。
内容の真偽を疑うのでなく、事実と前提にして考えてみようとするディアンにサフィアに対する忠義を試されたような気がしたからだ。
エルディーテは怪訝な顔で「私だってチャンスがあるなら試したいさ」と答えた。
それから確認するようにディアンに問う。
「ちなみにその試練とは?ケルベロスの条件を満たさないと魂は連れて帰れないのだろう。何をするんだ?」
「……分からない。その内容は口にしてはいけないらしい……だから行ってみなければ分からない」
告げられた言葉は重く、静かな溜息が落ちる。
「その噂が本当じゃなかったら?冥界の入口は、確かに存在するが……」
この世は冥界と繋がっている。
それは聖典にも書かれているが、広く知られているのは冥界にゆけば帰ってこれないということ。
生者は絶対に入ってはいけないと、固く禁じられている。
間違って迷い込まないように誰もが幼いころから教えられてきたことだ。
「――それでも、私はサフィアを連れ帰りたい。迷惑をかけるが……後の事は姉さん達に任せたいと思ってる。いいかな?」
ディアンがエルディーテにこの噂を話したのはこのためだったのかと、やっと胸に落ちた。
嫡男である自分が無断で消えたらグラウス家は困惑すると考えたのだろう。
せめて姉だけには事情を話しておきたいというニュアンスが、端々から感じ取れた。
「……たとえ話は好きじゃないが、もし聖典の話も噂も間違っていて、地上に戻れたなら、その時はちゃんと家に戻ってくると約束してくれるか」
エルディーテは問う。
希望に縋りたいと思う。だが噂はあくまで噂だ。
そうなった時に、ディアンが家に戻る気があるのか、それはエルディーテにとって重要なことだった。
しかし返ってきた言葉は期待と裏腹に、エルディーテの心に重くのしかかる。
「いや、……それは出来ない。私にはサフィアが必要なんだ……」
その言葉は固い決意が秘められていた。
エルディーテの想像よりも遥かに凌ぐ愛が垣間見え、このままディアンを行かせれば二度と帰ってこないのだと現実味を持たせる。
困ったことに、それを知って見送れる姉ではない。
エルディーテは了承したふりをした。
「分かった。それほどまでにサフィア様を想っていたんだな……家の事は任せてくれ」
「……いいのか?」
ディアンは双眸を瞬きエルディーテを見た。
「あぁ。公爵家には従兄弟を養子に迎え入れればいい。父にはそう進言するよ。私は婿取りが出来るような柄ではないしな」
肩を竦めて薄い笑みを零すとディアンは表情に陰りがさす。
「……すまない。迷惑かけて……姉さんのことも、家の事も大事だが私は……」
「かまわないよ。私もいつか、ディアンのように敬愛以上の感情を誰かに抱いてみたい」
口端を緩め自虐的に告げればディアンはエルディーテの手を握って「できるよ」と微笑んだ。
「しかし流石に今夜一晩ぐらいは家で過ごせよ、ディアン。私ほど夜目がきかないだろう?」
部屋の隅にまとめられていた荷物を見てエルディーテは言った。
招き入れられた当初は静養でもするつもりなのかと思ったが、旅支度だったと気付き釘をさす。
しかしディアンは首を振る。
「いや、悪いが直ぐにでも発つつもりだ」
「――それはさすがに残される身としては許せないな……もう会えないのなら、一晩ぐらい酒に付き合ってくれ。心の準備も出来ないうちにお前まで失うのはキツい」
エルディーテは縋るようにディアンを見た。
実の姉の最後の願いぐらい叶えてくれと、そう訴えれば優しい弟は折れたように頷いた。
「分かったよ……だが、早朝には出発するから。お手柔らかにね」
きっとそう言ってくれるだろうと考えて出した要求は、予想通り応じられた。
エルディーテは笑った。
「なら倉庫へ行ってくるよ。父様達に見つからないようにしなければな……酔いすぎないように調理場から何か軽食も貰おう」
そうして弟の出立を止めたのだ。
調理場には一人で行って、ハーブを漬け込んだ度数の高い薬用酒が戸棚にあったことを思い出して取り出す。使用人ら気つけに使うもので、共用のため調理場に保管されていたのだ。
――ディアンの話が本当なら、試練を受けるべきは自分だ。
そう考え、服に忍ばせる。
目の前でみすみす死なせてしまった罪は重い。
警護を外されていたから、などという言い訳ならいくらでも立つ。
実際に当日の警護任務から外されていたエルディーテは処罰を受けなかった。
しかし王女付きの騎士として、心を許していた存在として、ずっと後悔してやまない。
ディアンの聞いた噂が真実ならば、先に試練を受けるべきはエルディーテだ。
そう確信したのだ。
連れ帰れたらディアンに引き渡す。
きっと自分の手で助けたいと願っているだろうが、これはある意味で二人を幸福に出来るチャンスなのだ。
自分の幸せなどとっくに諦めていたエルディーテにとって、これ以上の贖罪はない。
――あの日、サフィアがエルディーテをこの国から連れ出すと言ったように、今度は自分がサフィアを冥界から連れ出そう。
しかし、眠る弟の荷を奪って辿り着いた先で待っていたのは難題だった。
ケルベロスは協力的な様子を窺わせるが時間に追われるような気分でエルディーテは邸を歩く。
静かな邸はまるでどこかの貴族の邸宅のようで、けれども不可解な場所に幾つもの扉がついていた。
そのうちの一つを開いてみると、中から何かが飛び出してくる。
「……なっ……」
あまりの勢いに眉を顰めると、飛び出したものを追うように宙へ視線を向ける。
それは鳥だった。
ハチドリのようだが全身が青い。
そしてその鳥はエルディーテを見つめながら非常に速い羽ばたきで宙に佇みながら喋った。
「――お前があたらしい挑戦者?」




