ケルベロスの試練
――――サフィアを失ったあの夜の出来事は、まるで昨日のことのように鮮明に覚えている。
守りきれなかった。
自分があの時そばについて居れば。
そう激しく後悔したエルディーテは、希望に縋り覚悟を決め、冥界の番人ケルベロスの元へ訪れた。
だからこそ今、エルディーテはケルベロスを前に困惑の表情を浮かべていた。
『俺を眠らせてみろ』
恐ろしい三つ首の犬は先ほどそう言ったのだ。
「眠らせる……?」
気付けば確かめるように声に出し繰り返していた。
命を差し出せと言われる覚悟で来ていたのだから当然戸惑う。
「そうだ……歌でも歌ってみろ、一度だけそれで眠れた事がある」
ケルベロスの要求はエルディーテにとって信じがたく、そして大きな壁に阻まれた気分にさせた。
命ならば差し出せば終わりだが、眠らせるとなると難しさが飛躍する。
なにせケルベロスは今”一度だけ“と言った。
つまるところ一度だけしか眠れた試しがないというのだ。
エルディーテは双眸を大きく見開いたのち、しかし眉根を寄せ顔を顰め思案したあと頷いた。
「……分かった」
ケルベロスはその場に蹲るようにして体を横たえるとエルディーテを見た。
「では何か歌え」
再び命じられる。
最後に歌ったのはいつだろう。
ピアノを止めた日に、歌うことも無くなった。
思い出せる限りの旋律を脳裏に浮かべると、そのどれもがサフィアが好んでいたものばかりだった。
同時に在りし日々の記憶が蘇り唇が震える。
「難しいようだな」
なかなか歌いださないエルディーテに対し、ケルベロスの中央の頭が首を擡げた。
「待ってくれ」
エルディーテは視線を足元へ彷徨わせながら記憶を手繰り、歌詞を思い出しながら口ずさみ始めた。
上品な音よりも周囲によく響く音を選んできた喉は、頭でイメージした通りの音に馴染まない。
しかし出来ないなどと諦めるわけにはいかなかった。
巨大な躰を前にエルディーテは今出来る限りの歌声を響かせる。
だが無情にも、歌い終わらぬうちに唸り声があがった。
「……眠れる気がしない。お帰り願おうか」
双眸を閉じていたケルベロスはエルディーテの歌に耳を傾けていた様子だったが、溜息と共に断りの台詞が向けられる。
「残念だが諦めろ。続けても無駄だ。これまでもお前と同じように死者の復活を願う人間が現れたが、実のところ眠れた試しはない」
白状するように容赦ない現実を突きつけ、ケルベロスは体を起こす。
エルディーテはケルベロスがどこかへ行ってしまうのではないかと焦り、その足元まで駆け寄り食い下がった。
「他にヒントはないのか?」
「ない」
「もう一度やらせてくれ」
「断る」
「なら私の魂と入れ替えるのでは駄目か?」
「あぁ、駄目だ」
苦悶の表情を浮かべるエルディーテに対し、ケルベロスはその場で静かに答えた。
短い返事は取り付く島などないといった様子を体現しており焦燥感を煽る。
そこでふと思い出す。
「それならやはり、もう一度…………」
エルディーテの知る限り、試練は本人の望む限り何度でも挑戦できるものだったはずだ。
「帰りはあの扉だ。現世に繋がっている」
しかしケルベロスは言葉を遮るように告げ、三つの首がエルディーテの後ろを指す。
そこには来た道にはなかった白い扉が存在した。
周囲には青い炎がゆらゆらと揺れており、扉を照らしている。
エルディーテはその扉を険しく見つめた。
そして振り返り、よく通る声ではっきりと訊ねた。
「――私の知っているかぎり、魂がアリストテレスの三叉路に辿り着く前なら、連れ戻すことが可能なのだろう?噂ではお前は人間に慈悲深いと聞く。魂が三叉路に辿り着くまでは何度も挑戦させてくれたらしいじゃないか。なぜ私だけ一度限りなんだ?」
エルディーテが得た情報では、試練への挑戦は一度限りでなかった。
ケルベロスは”一度だけ眠れた”と言ったが、実際に魂を連れ帰ることが出来た人間は一人じゃなかったはずだ。
先ほどは伝説の存在を前にして紡がれる言葉を真に受けていたが、扉という敗北を突きつけられ思い出す。
魂の返還は希望のある話だからこそ噂となり、生き証人らによって語られている。
自分だけが不当な扱いを受けているのではないか。噂が間違いなのか、それとも軽んじられているのか……その疑念は問い詰めなければ気が済まない。
するとケルベロスは暫くエルディーテを見つめたのち、信じられない事を告げた。
「王女の意思だ。本人は地上に帰るつもりがない。なんせお前はここに居ると自分の寿命を削ることになるからな。要するに、無謀な試練を受けここで無駄に命を消費する必要はないと、サフィア王女は言っているわけだ」
エルディーテは思わずケルベロスの周囲に注意深く視線を彷徨わせたが、しかしそれらしき気配はない。
茶化されているのかとすら感じ、声を荒げた。
「そんな馬鹿な話があるか。直接話さなければ納得できない!」
「無理だな。生きている者と死んだ者が言葉を交わすことはできない。さぁ、帰れ」
ケルベロスは威嚇するように大きな前足をエルディーテの目の前に激しく叩きつける。
足元は揺れ、反射的に肌が栗立つ。
しかし唇を引き結び恐怖を飲み込んだ。
それから肩を上下させ深呼吸を繰り返したあと、エルディーテは小さく零した。
「……嫌だ」
のこのこ帰れというのか。
何のために来たのだ。
ケルベロスが紡いだ言葉がサフィアのものだと信じたくない。
「納得したくない!」
エルディーテは食い下がった。
この命と交換になったとしても、せめて弟とは再会させてやりたい。
それがここに来た目的なのだから。
「王女の傍だけが唯一安心できる場所だった……そんな根拠のない戯言を信じ、帰れるものかっ!」
叫ぶように訴える。
エルディーテがその髪と同じ稲穂の瞳を真っすぐ向けると、ケルベロスは一瞬だけ冷えた青い瞳を揺らした。
動揺したように見える顔つきは直ぐに霧散したが、それを見逃さなかったエルディーテはやはり嘘をつかれているのではないかと疑う。
「他の人間と同じ扱いにしろ。私は帰る気はない!」
臆することなく言い放つ。
するとケルベロスは鼻の上に皺を作り凶悪な顔で睨む。
深い沈黙が落ちた。
声を発した方が負けるような、そんな重い空気が漂う。
ずっしりと重力を感じるような感覚が長く続き、緊張で額に汗が滲む。
しかしエルディーテが折れるより先に、溜息が零された。
「どうしたものかな……」
瞼を閉じるケルベロスは独り言ちるように呟くと、それから「――分かった。撤回しよう」と悔し気に紡がれる。
「寛大な俺は、お前が条件を達成できるように協力してやる。ただし魂が三叉路に辿り着くまでだがな」
手の平を返すような申し出にエルディーテは訊ねた。
「また騙すつもりか」
「違う。とにかく俺としては……諦めるなり達成するなりして、とっとと帰って欲しい」
気怠そうに紡がれる。
「どういう風の吹き回しだ?」
「……王女と同様、無駄に命を削って欲しくない。他に理由が欲しいのなら……お前の見た目が好みだとでも言っておこう。美しい人間は地上で生きるべきだ」
今度は明らかに適当に告げたと分かる言い回しだった。
「エルディーテ。釘を刺しておくが期限の補償などないぞ。意外と明日あたりあっさり三叉路に招かれ王女の魂は消失するかもしれない」
ケルベロスは声を潜めエルディーテに告げる。
こちらは真実を言っているように聞こえ、エルディーテは神妙に頷いた。
「それでもいい。チャンスをくれたことに感謝する」
胸の前に手を置き、エルディーテは静かに頭を下げた。
何故か分からなが、このケルベロスは王女サフィアの意思と称し、エルディーテを早く地上へ帰らせたがっている。
この命が削られようがケルベロスには無関係のはずだが、これは噂で聞いた”慈悲深さ”故の言動なのかもしれない。
帰れなどと言われたが試されたと捉えるべきなのだろうとエルディーテは考えを改め、顔を上げると口端を緩めた。
「――私は必ず、君を眠らせてみせる」
ひとまずは入口に立つことが出来た。
安堵してこれまで身に着けていた鎧を脱ぎ、エルディーテは剣を置いて考える。
ケルベロスは大人しくエルディーテの前で再び身体を横たえ、のんびりと目を伏せて休みながら待っている。
先ほどは歌で失敗したが、要は寝かせられればいいのだろう。
「……一応聞くが、歌じゃないと駄目なのか?君は要するに眠りたいのだろう。他の方法では駄目か?」
神妙に問えば頭の一つだけが双眸を開け答えた。
「――昔、妻を冥界から連れ戻そうとした楽士の男がいたらしい。そいつは歌い、眠らせた。成功したのはその一度きりだ」
協力すると言ったのは確かなようで、勿体ぶることもなく返事が返ってくる。
しかしその言い回しには違和感があった。
ケルベロスは今、自分のことなのに他人の話を聞いてきたかのように言ったのだ。
だがエルディーテがそれを指摘するよりも先に、ケルベロスが続ける。
「何をする気か知らないが、薬草の類ならば効かないぞ。他に方法があると言うのなら好きにしろ。この邸には何でもある……」
その言葉と共に辺り一面に青白い光が次々と灯り明るくなる。
いつの間にか美しい庭園に囲まれた一軒の白い邸が現れていた。




