第10話:聖女の祈り
ユグドラシルの深層。
そこは、地上の物理法則が通用しない、世界樹の記憶と邪神の悪意が混ざり合った「精神の海」だった。
一行が足を踏み入れた途端、周囲の景色は歪み、かつてのログハウスのリビングや、懐かしい村の情景が、煤けた幻影となって浮かび上がっては消えていく。
「……何、これ。お兄さん、みんなが変な形になってるよ……」
リナの声が震える。
幻影の中のアルドやカイルは、口々にリナを責め立てるような呪詛を吐き、彼女の心を削り取ろうとしていた。
「大丈夫だよ、リナ。これはこの木が見せている『悪い夢』だ。……悪いな虫が、この子の記憶を無理やり引き出して、僕たちを怖がらせようとしてるんだね」
アルドがリナの肩を抱くが、彼の温かな魔力を持ってしても、この広大な深層全体を完全に浄化するには時間がかかる。
邪神は賢者の石と融合したことで、世界樹の神経系そのものを盾にしていた。
『……ククク……無駄だ……。ここはお前たちの「心」が形を成す場所……。弱き者から、順番に闇に呑み込まれていくがいい……』
どこからともなく響く邪神の声。
同時に、壁から滲み出た黒い粘液が、リナの足元に絡みつこうとする。
それは触れる者の不安を増幅させ、精神を崩壊させる「絶望の泥」だった。
「リナ!!」
カイルが『黒曜』で切り払おうとするが、実体のない精神的な干渉には、剣の物理的な破壊力は届かない。
「……私が、やらなきゃ」
リナが、アルドの腕の中から一歩前へ出た。
彼女の瞳には、恐怖を押し込めた強い決意が宿っていた。
「お兄さん。……私、いつも守られてばかりだった。お兄さんが作ってくれる美味しいご飯を食べて、暖かいお家で笑って……でも、今度は私が、お兄さんたちが進む道を照らしたい!」
リナが両手を胸の前で組み、祈りの姿勢を取る。
彼女の中に眠る「聖女」の因子――それは、北の凍てつく大地でも失われなかった、清らかな生命の輝き。
「……穢れを祓い、迷える命に安らぎを。……天の光よ、この深い闇を切り裂いて!」
――カッ!!
リナを中心に、純白の衝撃波が円状に広がった。
それは力による破壊ではなく、純粋な「慈愛」による拒絶。
リナを責め立てていた幻影たちは、その光に触れた瞬間に温かな粒子となって霧散し、足元の黒い泥もまた、まるで日の光を浴びた影のように消え去っていった。
「……すごい。リナの周りだけ、闇が近寄れないみたいだ」
カイルが目を丸くして驚く。
「……立派になったね、リナ。君の祈りが、この木の苦しみを和らげているよ」
アルドが優しく微笑み、リナの頭を撫でる。
リナの祈りによって、迷宮の「精神汚染」は一時的に退けられ、奥へと続く本当の道が姿を現した。
その頃、地上――。
王宮の中庭では、ベラドンナが優雅に、かつ冷酷に「仕事」を終えていた。
「ふぅ……。ネズミさんたちの後始末も、案外骨が折れるわね。……ミラ様、地下の様子はいかがですか?」
ベラドンナが問うと、ミラは地下への入り口に手を翳したまま、少しだけ誇らしげに口角を上げた。
「……ええ。リナが、殻を破ったようですわ。……あの清らかな光、さすがはアルド様の『妹』ね。ワタクシの認めた『家族』に相応しい気高さですわね」
ミラは、かつての自分なら「吐き気がするほど眩しい」と感じていたはずの聖女の光を、今は愛おしく感じていた。
アルドを愛することで、彼女の魔王としての心にも、少しずつ「光」を愛でる余裕が生まれていたのだ。
「ゼクス。リナの光が道を作っている間に、我らも深層の『外壁』を固めますわよ。邪神に、一寸の逃げ場も与えてはなりませんわ」
「……了解いたしました。リナ殿の光の波形を観測。……これに同期する形で、地上から逆位相の結界を流し込みます。……これぞ正に、共同作業」
ゼクスが冷徹な演算の中に、微かな高揚感を混ぜて答える。
地下深層。
リナの光に守られながら、一行はついに迷宮の「第二層」へと足を踏み入れる。
そこには、邪神が世界樹の記憶から作り出した、アルドたちの過去――あるいは「あり得たかもしれない最悪の未来」が待ち受けていた。
「……お兄さん、見て。あそこに……私たちの村がある」
カイルが指差す先。
闇の中に浮かび上がったのは、燃え盛る自分たちの故郷と、絶望の中で立ち尽くす自分たちの姿だった。
邪神の次なる罠が、一行の心の隙間を狙って牙を剥く。
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