渡航準備
来栖は国鉄吉祥寺駅から一〇分ほど歩いた場所にある屋敷を訪ねた。夕暮れ時の太陽に照らされた表札には彼と同じ苗字が飾られている。
ガラガラと横滑りの扉を開け中に入ると、来栖は廊下の奥に向かって声を投げた。
「ただいま。紗江里、いるかい?」
しばらくすると居間の方からごそっと何か倒れたような物音がしたかと思うと、一人の女性が玄関に向かって駆けだしてきた。
「にっ兄さん!?なにどうしたの急に」
「そんなに慌てなくても」
「だって、兄さん来るときはいつも連絡くれるでしょ。それに最近は全然顔出さないし」
慶次の妹、来栖紗江里。彼女は最近二十一になったと聞いていたが、髪には今風のパーマネントをかけ未だ少女のような快活な雰囲気を纏っていた。
「悪かった。色々立て込んでたんだ」
「はいはい。軍人さんはお忙しゅうございますね」
「そう怒らないでくれ」
苦笑いしながら、慶次は靴を脱ぎ家の廊下を並んで歩く。
荷物を壁に立てかけて居間に座ると、紗江里は不機嫌になりながらも兄が座る前に茶を出してくれた。
「……ありがとう。仕事の方はどうだ?うまくやれてるか?」
紗江里は商業学校の女子部を卒業した後、簿記・算術の知識を活かして重工系企業の経理業務を担当していた。
「順調よ。でもほら、やっぱり職場は男の人が多いから、たまに軽く揶揄われたりするけど」
「紗江里。いざとなったら馬鹿どもにお兄ちゃんが帝国陸軍流の鉄拳を食らわす。いつでもいいなさい」
「何よそれ」
慶次が拳を握ってみせると、紗江里は呆れたように笑って、「……まあ頼りにしてるわ」と呟いた。
「そういえば今日父さんは?」
「下町の方に出かけていきましたよ。どうせまたお酒です。昔の同僚だって人と」
「いい加減肝臓にもガタが来てるだろう。紗江里の方から言ってやってくれないか」
「いやよ、兄さんが言ってよ。お母さんが死んじゃってからずっとあんな調子で、私ももう諦めてるの」
慶次の母は紗江里が中学に入った頃に病で亡くなった。北欧の血が入った美しい人だった。それ以来父はすっかり塞ぎ込み、仕事を辞めて酒浸りの自堕落な生活を送るようになった。そんな父の代わりに家計を支えるため、慶次は苛烈な環境の陸軍に身を置き続けていたという面もあった。ただ任務の都合上、実家に留まる訳にもいかず、父の世話は妹に任せきりであった。
「……ごめんな。紗江里。ずっと一人で支えてもらって」
「いいよ。仕送りはもらってるし。仕事も大変なんでしょ」
「そう言ってもらえると助かる」
「それで、何か用事があってきたの」
「あー実はな、新しい任務につくことになった。詳しいことは言えないが今回は大分長くなりそうだ」
「……どこで何するの、とかは聞いちゃいけないんだよね」
紗江里は答えがわかっているように、目線を机に落とした。
「すまん」
「そういって前出てったとき、ひどい大怪我負って帰ってきたよね。胸の傷なんてまだ治ってないでしょ」
「その時は大変心配をおかけしました、、」
「――まあ頑張ってきなよ。お国のためなんでしょ」
「そうだね」
「いつ行くの?」
「明後日の明朝だ。実は今日もあまり時間がないんだ。荷物をまとめたり色々準備に取り掛からないと。だからもし何もなければ僕はもう行くが」
「そうなの、わかったわ」
紗江里の反応はあっさりとしている。今生の別れとなるかもしれない瞬間だが、まあこんなものだろうと慶次は妙な納得感を覚えた。まさか米国に行くなどとは言えないし、作戦の趨勢によっては片道切符ということも彼女には伝えられない。
玄関を出てそのまま慶次が帰ろうとした矢先、後ろから声が飛んできた。
「待ってお兄ちゃん!」
「……どうした?何か忘れていったか」
「これ、あげる。初詣に行ったとき、兄さんにと思って買ったの」
そう言って紗江里が目をそらしながら、ぐいっと差し出したのは、武運長久守と書かれた神社の布袋だった。
慶次は微笑んでそれを受け取ると
「わざわざありがとう、うれし――」
「兄さん」
慶次が言い終える前に紗江里は一回り小さな体で、兄に抱きついた。
抱きついた彼女の顔がみるみる耳まで赤くなる。
「さえ、り?」
紗江里は恥ずかしさでしばらく、静止していたが、最後に勇気を振り絞ったように声量を上げて言った。
「あのさ!私には兄さんがなにやってるのかなんてわからないけどさ。絶対生きて帰ってきてよ」
慶次は祈るように見上げてくるその瞳を優しく見返して、妹の頭を撫でた。
「ああ、約束するよ」




