122. 口づけの意味
玲視点です。
俺は愛馬の天藍を駆り、通常一時間と少しかかる場所だが、近道をして少し藪があるような小道も走らせ、五十分程度で浄化の滝に到着した。案の定、そこには薫の馬・紅玉が佇んでいた。
「……ごめんな天藍。帰ったら綺麗に汚れ取ってやるからな。
紅玉も、もうちょっと待ってろな」
天藍も紅玉も、天気がよく気持ちいいみたいで、ブルルと機嫌よくすりよってくる。俺はねぎらいの気持ちもあって馬たちの首を撫で、浄化の滝の方に視線を走らせた。
……そこには薫が、魅入られたように滝を見つめて立ち尽くしていた。
そのまま数歩先に行けば、滝壺に落ちてもおかしくない距離だった。
身体が震えて、俺は静かに後ろ姿の薫に歩み寄る。
まかり間違えて、何か呪いの影響がまた出て飛び込まれでもしたら助けられない。そんなことは絶対に避けなければならなかった。
「……滝壺に落ちたら上がってこれねえから、絶対落ちるなよ」
あと数歩のところまで近づいて、静かに声をかける。思わず声が震えた。
「え、……玲?」
俺の足音で振り向いた薫、不思議そうに俺の名前を呼ぶ。俺は抱きすくめるように薫の身体を滝壺の傍から離し……彼女を水しぶきから守るみたいに、抱き寄せたまま数歩後ろに下がった。
「なんでここにいるの? ランチまでには帰ろうと思って……体調、昨日よりよくなった?」
きょとんとした薫の声が、耳の傍で大きく響いた。声は元気そうだし、顔色も悪くないことに心底ほっとして、はあ、とため息をつく。こっちの方が死にそうだ。体調もそう回復していないのに、朝飯抜きで小一時間も馬を走らせてきたんだから。
俺はなんだか無性に腹が立って、やっとのことで言った。
「……ちょっと来いよ」
それだけ言って滝のそばから少し離れた。滝の裏側、柄杓で流れ落ちる水を汲んだりするところの奥は、洞窟になっている。その入り口まで薫の手を引いて連れて行き、とん、と少し強い力で薫の背中を土壁に寄りかからせた。
薫は驚いた表情で俺を見つめる。 何が起こっているかわからないという風な彼女を、俺はまっすぐ見つめた。
「玲、顔色悪い……体調、戻ってないんじゃないの? だめだよ、無理しちゃ」
誰のせいだと思ってる。
俺は思わず睨むように薫を見つめる。
「ここは危ないから、一人で来るなって言っただろ?」
低くそれだけ言うと、薫は目を見開いて黙った。どうやらそれで俺が怒っていると思ったらしい。その綺麗な目を伏せて、小声で言った。
「……ごめん……今朝の夢で、荒獅子……風狼の王が、私が怪我させたときに、玲の身体に自分の呪いが流れ込んだから、浄化すべきは玲だって、教えてくれて。ここの水を飲んだら、ちょっと楽になるんじゃないかなって思って、それで」
俺のためと思ったのかもしれないが、夢で老人とは言え他の野郎と会ってることにも腹が立つし、何より自分自身がこいつに危険な行動をさせてしまってることが、怒りのボタンを連打した感じだった。
自分でも驚くような異様に低い声で、俺は言った。
「今、他の男の名前出すな。俺のせいかもしれねえけど、やったら駄目だって言ったこと率先してするなよ。言った意味がないだろ?」
驚いたように薫は言う。
「他の男って、……風狼だよ……」
ああもう! 自分がめちゃくちゃなのはわかってた。
どうにも苛立たしくて、俺はぎりっと唇を噛む。こんなにも自分を抑えられないのは初めてかもしれなかった。思わず目に涙が浮かんだ気がして、俺は少し落ち着こうと一瞬目を閉じる。
「……玲、具合悪い? 座ろうか?」
「今! 俺の体調なんかどうでもいい!」
どうしてこんな時でも俺を優先するんだ。責めていいだろ。訳分からずおまえのことを怒って、叱って、壁に押しつけてるんだから!
思わず抑えきれずに叫んだら、薫は驚いて、固まったような表情で俺を見つめる。
「どうでもよくないよ……いちばん、大事なことだよ」
こんなときなのに薫の声が優しく響いて、俺はなぜだか泣きそうになる。それでも自分を抑えられないままで、俺は言った。泣いてるのかどうかも、自分ではもうわからなかったが、我ながら声が掠れてた。
「……めっちゃくちゃ腹立ってるから、好きなようにする」
そう言うなり、俺は薫の手をとって、彼女の手の甲に優しく口づけていた。
いちばん、大事なことだよと言われたときに、水をかけられたみたいに怒りが消えてた。腹立ってるなんて言ったのは、半分照れ隠しだった。こんなめちゃくちゃなやつ、見捨てられても仕方ない。でも。
風雅の国では、口づけする場所にそれぞれ意味がある。
「えっ、ちょっ、……あ、あの、玲」
明らかに動揺している薫に、俺は言った。
「聞かない。今のは風雅の国の慣習で、あなたに敬意を払います、って意味」
「敬意って……、そんな」
「そんな、何」
次は額だ。どうしてか、薫が涙目になってる。
嫌なのか? 嫌なら振り払うよな。でも、脱力したように壁に寄りかかったまま、薫は涙目で俺を見つめた。俺は言った。
「額は、あなたを守ります、って意味」
そう言った瞬間、薫は顔がまっ赤になっている。
俺はゆっくりと、次は頬に口づけた。
「頬は、大切です、って意味」
そっと囁くと、ぼろっと薫の大きな瞳から涙が零れた。俺はその涙をぺろりと舐めて、
「涙に口づけるときの意味は聞いたことねえな」
少し笑って呟いた。俺の笑顔に呑まれたように、薫の涙が一瞬止まる。
「もう! いいから! それほんとなの? 今作ってるの?」
「こういうことを作れるほど俺は詩人じゃない」
そう言って身体を離して、まっすぐに薫を見た。つい昨日まで、薫は呪いに侵されて、心底不安だったはずなんだ。俺を怪我させてしまって、申し訳ないと泣いていた。なのにどうだ。その翌々日には、俺の浄化が必要だと夢で風狼に言われたから、早朝に単身、この浄化の滝まで水を汲みに来た?
こんな女は他にいないし、薫以外いらないと思った。
「唇は、結婚してください」
そっと口づけた。
「……今はここまでにしとくな」
俺はできるだけ優しく微笑んでみせて、薫をそっと抱きしめた。夢で倒れて動かなかった薫、あの恐怖がまだありありと脳裏に浮かび、思わず身体が少し震えた。
「続きは本当に結婚した後にするから……ちょっとだけこのまま……」
薫の肩に額を押し当てて、吐息と一緒に俺が囁くと、知ってか知らずか、薫は俺の背中をそっと撫でた。まるで何か、なだめるみたいに……なぐさめるみたいに。
そして、たったそれだけで、俺が心の底からほっとしているのも本当だったんだ。
生きてた。
よかった。って、それだけで。




