117. 再び浄化の滝へ
速水邸の門の前で玲と別れて、もう夕方だったのでお風呂をわかし、残っていた食材で簡単な夕ごはんを食べた。
私は湯船に浸かって、ここ数日のことを考えていた。
皆のおかげで左腕の傷跡は綺麗に消えていた。でも掌を見つめていると、ふわんと水色の炎が浮かび上がる。
もう片方の手でそれを押さえるようにすると、それは体内に引っ込むように消えていく。
炎を攻撃のように使えるようになるかもと、玲は言った。でもそれを使いすぎたら私の生命力を削る、諸刃の剣みたいな話。
風狼の王・荒獅子との共存。飼い慣らす。私が傷つけてしまった玲。さっきも少し調子が悪そうだった。
私は葛藤の中にいた。
一人になったら、怖い気持ちと、大丈夫という気持ちが交互に表れる。
お風呂から上がって、寝間着の浴衣に着替える。
ふと、ここ最近書いていた一行日記が止まっていたことを思い出して、文机に向かった。
墨をする匂いが心地良くて、少し気持ちが落ち着く感じがする。
『五月二一日 傷が悪化、龍樹さんの家へ。
五月二二日 西の砦へ
五月二三日 浄化の儀式
五月二四日 帰宅』
箇条書きで書いた後、まだ早い時間ではあったけど、雨戸を閉めて私は布団に入った。でもこの数日の出来事は余りにも濃すぎて、とてもすぐには眠れなかった。
うとうとしていたら、夢に荒獅子の姿が現れ、やっぱり掌に水色の炎が浮かんだ。命を削る闇の力。玲に刀を向けて傷つけた瞬間がフラッシュバックする。
だめだめ、そっちに戻ってはだめだ。
目が覚めたり、またうつらうつらしたりを繰り返す。
少し離れた距離で私をじっと見ている荒獅子。
消滅することを望んでない、と荒獅子は言っていた。
そして今夜の夢にも玲がいた。
黙って私の隣に佇んで、私と一緒に荒獅子をまっすぐに見つめていた。
すると。
荒獅子が急にカツカツと脚を地面に打ちつけた。その赫の瞳は獰猛な光を宿して玲に向いている。
勢いをつけて駆け寄ってくる荒獅子を見て、思わず頭に血が上る。
駄目だと言ったのに!
私は即座に刀を出そうとして間に合わず、掌の炎を荒獅子に飛ばしていた。それは荒獅子をかすめて遠くに飛んでいく。荒獅子が、そして玲も、仰天したように私を見つめた。
「荒獅子。駄目だって言ったよね」
私が叱ると、荒獅子は肩をすくめるような動きをした。
"そうだったな。長年蓄積された感情があったものでな"
「次は許さないから! でも、荒獅子の力で私に入った炎を、荒獅子にぶつけたら怪我をするの?」
私が素朴に思って尋ねると、荒獅子は端的に言った。
"色が少し変わっただろう。もうおまえのものに変質している。当たれば痛手は受けるだろうが、今すべきはそれではない"
「今すべきは、何?」
"我が力が浄化されぬ内に、おまえを操り神官を傷つけた。刀は我が闇の炎をまとい、そのカケラは傷を通して神官に入った。神官こそ、浄化が必要"
血も凍るってこういうことだ。
私は一瞬、呆然と固まってしまう。
でも、固まってる場合じゃないんだよ、薫!
自分でやったことで玲が弱っているなら、少しでも回復を助けなければ。
そう思った瞬間、目が覚めた。
小鳥の鳴き声が外から聞こえる。朝が来ていた。
神官こそ、浄化が必要。
荒獅子の言葉が頭の中にこだまする。
昨日の別れ際、顔色も良くなかったし、玲の身体は少し熱かった。疲れだけじゃなかったんだ。
そして、浄化の滝の水は体調回復に役立つと、他でもない玲が言っていた。
一人では行くなと言われたけれど、滝壺の方には近づかずに、滝の裏にあると聞いた湧き水だけを汲んで来たら?
西の砦で、翡翠と西羅が行う浄化の儀式は、症状が出た後で効くと聞いた。でも浄化の滝で、湧き水は聖水的な意味もあると言っていたから、飲んだら玲も少し楽になるかもと思い付いて、私は起き上がる。
誕生日だから一緒にお昼を食べよう、と玲は言ってくれていた。
ランチを食べて、その後がいいかな。いや、回復してもらうことの方が先だ。
玲のことが本当に大事だ。少しでも、楽になってくれたらその方がいい。
朝六時すぎ。私は浴衣から馬装束に着替える。ふと文机に置いた一行日記の紙が目に入った。
墨をすったまま硯を洗わずに寝てしまって、まだ少し墨が乾かずに残っている。
『五月二五日 浄化の滝に湧き水をくみに行く』
残った墨でそう書いたら、驚くほど心が静かになった。
浄化の滝までは馬で一時間と少し、往復で二時間半。
ランチの時間までに浄化の滝に行って、身体を補強できると聞いた湧き水を汲んで戻ってこよう。
早朝、私はそっと速水邸を出る。神殿の厩舎に行き、紅玉に鞍をつけて、ひとり浄化の滝を目指して紅玉を走らせた。




