114. 風狼の王の名は。
「大丈夫じゃないよう~……」
小さな私がうずくまって泣いてる。
あれは十歳の薫だ。五月始めに頭を打ったときに数時間、私の記憶は子どもの頃に戻った。
(ひとりじゃないよ、薫。)
私は心の中で語りかける。小さな薫はその大きな目を、声が聞こえた方に向けた。涙はまだ浮かんでいるけど、我ながら目力が強い。
(どうしたら大丈夫になるか考えよう。逃げた方がいいときは逃げることも視野に入れよう。)
「逃げた方がいいときは逃げる」
私が語りかけた言葉を聞いて、面白そうに、幼い私は笑った。
「ゲームみたいに、攻撃した方がいいときは、攻撃するってことだよね」
(そう。やってみよう。)
立ち上がった私は、今の姿になっていた。私は明日十七歳になる。
そしてその時。
背後に何かの気配を感じた。
それは青く、静かな雰囲気で、でも牙を剥こうと隙を狙っている感じもあった。
待って、牙を私に向ける前に、と、半ば必死で振り返る。
思った通り、静かな瞳をした半獣がそこに立っていた。
"北の森へ"
嗄れた、あの時の声だった。
玲を傷つけた時に、私の口から漏れ出た低い声。
でもあの時ほど禍々しくなく、少し静かで、晴れた日の水面みたいに凪いでいた。
郁の舞みたいな花びらの夢を見たときに、私の掌に現れた水色の炎にそれは似ていた。憎しみよりも穏やかさが混ざっている。
対話が成立するのかな。
翡翠が言っていた『飼い慣らす』なんてことは無理だとしても。
話すことができるなら、何かやり方を模索できると思った。
「北の森ではなくて、翡翠の街に住むのはだめなの?」
私が問うと、その獣はしばらく沈黙した。
獣と言うか……正確には、足とお腹、そして腕は狼男みたいな毛むくじゃらだった。でも、胸の辺りから肩、そして顔も狼の毛はない。人間みたいだ。銀灰色の長い髪の毛と、血の色みたいな赫い瞳をした、おじいさんと言ってもいい初老の男のひとだった。皺が深い顔だけれど、よく見ると、結構イケメンかもしれないと思わせる。
彼は言った。
"我が住処は北の森"
私は聞いてみる。
「これから、翡翠宮か、その近くに住むのはだめなの?」
"慣れん"
即座にそう言われて私は少し考えた。慣れの問題なのか。
「なるほど」
私はもうひとつ、聞いてみた。
「私は薫って名前なんだけど、あなたの名前は?」
"荒獅子"
「……そう。あのね、荒獅子」
名前を呼ばれて、荒獅子はまっすぐに私を見つめた。
「神官の玲は、あなたが巣くっている私の、大事なひとなの。もう二度と傷つけたくない……傷つけてはいけない。 あなたはどうして、神官を傷つけようとしたの?」
"昔、知っていた女が……神官家系の女で、神官全体を敵対視していた"
私は再び、なるほどと思う。
玲が言っていた『呪いを司る存在』というものと関係があるんだろうか?
私はうっすらとそう考えながら、話を進める。
「じゃあ、もし今、ここで私が荒獅子と戦って勝ったら……。
もし私が勝ったら、北の森ではなくて翡翠宮の隣の、私が住んでいる家に住むことにしてもいいかな」
"…………"
荒獅子は沈黙しながらも、私が勝ったらと言った時、面白そうな顔をした。その表情で私は、彼の返事はイエスだと悟る。
「やってみようよ。たぶん私、そんなに弱くないよ」
夢だから刀出るよね。 想像したら、手の内にいつも使っている刀がふっと現れた。 私の口元に笑みが浮かぶ。好きなんだ。滝からいつも鍛えられている剣術稽古、身体を動かすことも、刀を振ることも。
ボクシングのステップみたいに左右に軽く動きながら隙をうかがう。
駆け寄り、シュン、と風を切って私が剣を振り、荒獅子は綺麗に避ける。
そして鋭い爪が私の顔を狙ってくるのを瞬時にかわす。
私は刀を振り下ろし、荒獅子はくるりと身をかわして屈む。瞬時にジャンプした荒獅子、爪が私の頬のすぐ脇をかすめ、避けた私は少しよろめいた。
その隙に駆け寄った荒獅子が私の肩を軽く掴み噛みつこうとする。どうやって避ける? 私は倒れ込む自分の身体を利用して刀の裏側で峰打ちのように荒獅子の足を払う。気づいた荒獅子、刀が当たる前に後ろに飛んで下がった。
荒獅子が体勢を崩してる内に、私、すぐ立ち上がる!
数分、荒獅子の腕の動きと私の刀の動きが交錯して……荒獅子の身体が開いたと思った一瞬。
彼の懐に飛び込んだ私、首筋に剣を当てて寸止めした。
「勝ったよ」
その人狼は、ため息をついたようだった。
"……仕方あるまい。従おう。私も老いた"
拍子抜けするような荒獅子の態度に、私は呆然と彼を見る。
"私は自分が消滅することを望んではいない。抵抗の結果が、神官に向けた夢の炎であり、お前を操ったときの刃だ"
「あれはもうやらないと約束できる?」
"制御できるかどうかは、おまえ次第だ"
荒獅子は否定も肯定もしなかった。ただ私次第だと言って、私はもう一度、なるほどと頷いた。
そして目が醒めたとき……窓の外からは朝日が差し込んでいて、いつのまにかつないだ手が外れて、翡翠は隣でまだすやすやと眠っていた。
(……飼い慣らせたわけじゃないけど、なんとなく和解した感じだよ、翡翠。そして、小さな薫。)
私はそう思って安心して、はああーーーっと息をついて。
翡翠にくっついて、もう一眠りすることにした。浴衣越しに感じた翡翠の体温は、とてもとても温かかった。




