勇者は誘われ、爪は研がれる
鉄柵の外側から見た通り、そこは南北に水路が走っていた(x+1.4)。だが、門の向こうは橋が掛けられていて、渡ることができた(x+2.4)。
ここからは左手(北)は壁だった。右手(南)は空間が広がっていた。
左の壁には、何やら文字が書かれてあった。ネズミ君がランプを近付けて目を細める。
『アヒル館はここ真っ直ぐ→』
その下には、さっき見たのと同じ、アヒルのイラストが付いていた。
「何だ、こりゃ。何かは分からんが、とにかく先へ進めってことだな」
僕はさっきから、誰かが誘っているような気がしてならなかった。この滅多に人がやって来ない迷宮の一角で、誰かが僕らを待っている。
きっとそれは忘れられた人。忘れられた場所にいる、忘れられた存在。神ですら手を差し伸べることのない、忘れられた生き物。
そんな相手が、この奥にいる。日の光の当たらない地下で、たった一人で暮らしている。太古の昔からずっと待っている。バスケットボールを突いた、呪われた少年がやって来るのを。ダムダムダム…。
「なあ、勇者。これはアレか?やっぱり続き物か?」
「おそらくね」
僕はここのエリアの構造の見当を付けていた。地下一階がアレだったとすれば、地下二階はきっとアレだ。
僕らはもう一つ東へと進んだ(x+3.4)。ここからは両側を壁に挟まれていた。予想通りである。
「何なのよ。あたし達にも分かるように説明してちょうだい」
妙子は既に気付いているかもしれなかったが、鉄子はこういう場合オートマチックに女子を一纏めにした。
「つまりはよお、上に富士山の富の字があったろ。だったらこっちは富士山の士じゃないかとな」
興味のなさそうなネズミ君の説明。ちょうどこの上、地下一階の南東エリアでは、壁の配置を鳥瞰すると富士山の富という字になっていた。僕がこれを発見したとき、一番馬鹿にしてたのがネズミ君だったけど。
「バッカみたい」
「まあ、そう言うなよ。製作者だって色々と考えてるんだろうしさ。確かにジョークとしちゃくだらんが、それなりに苦労があるんだろ。目に見える部分だけに脊髄反射するのではなく、その裏側を感じ取る想像力と共感力が大事なんだぜ」
あれ?その台詞、僕がネズミ君に対して思ったことだったような。
更に一つ東へ(x+4.4)。ここで行き止まりとなった。士の字の、二本の横棒に挟まれた左側に僕らはいることになる。
そこに扉があった。士の字の横っ腹から中に入ることになるのか。
「ここがアヒル館ってことかい?」
ネズミ君はドアをトントンとノックした。すると中からガチャリという音がして、ドアノブが回転した。扉はすーっと向こう側に開いて行った。
「おうわっ」
ギョッとして僕の後ろに隠れるネズミ君。だが予想に反して、そこには誰もいなかった。
「どうやら勝手に開いたみたいだね」
誘われている。さっきそう思ったことは、確信に近くなった。この館の中にいる何者かは、僕らが来ることを知っていて、誘っているのだ。
「行こう」
ネズミ君のランプの光が中まで伸びていっていたので、僕は先頭で入って行った(x+5.4)。
「あ、そうだ、気を付けろよ。こういう入り口ってのは、罠を仕掛ける絶好のポイントだからな。無警戒で入って行って、上から黒板消しがボトリってことのないようにな」
いつものように遅い情報をありがとう。幸いにも上から何かが落ちて来ることはなく、無事に部屋の中まで入って行くことが出来た。
そんなことよりも僕の注意は、下に向けられていたのだ。靴の下にフカフカした感触を感じていた。入り口から赤い帯が真っ直ぐに伸びている。赤絨毯が敷かれているのだ。
みんなも僕に続いて入って来る。一様に床を見て驚いた。
「何だ、こりゃ」
「はあー…」
「凄いですねえ…」
ここは1ブロック四方の玄室であった。特徴的なのは、床である。
さっき言ったように、入り口から赤い絨毯が伸びている。それは真っ直ぐ、正面(東)に見える黄金の扉まで続いていた。
絨毯の下は、床に絵が描かれていた。それは幻想的な世界地図だった。
まるで宇宙空間のような、黒い海に六つの大陸が浮かんでいた。
絨毯はアフリカ大陸の西側に掛かり、サハラ砂漠を縦断し、西ヨーロッパを隠して北極海へと伸びていた。
左には南北アメリカ大陸があった。
右の端っこに見えるのは、ユーラシア大陸から剥がれ落ちたばかりの三日月。日本列島だ。
経度0℃線を中心とした国際スタンダードである。
入り口付近には、大きな白い形が横たわっていた。南極大陸であろう。極に近いほど実際よりも大きく描かれる、メルカトル図法だ。
扉の左右には、アトラスみたいなブロンズ像が立っていた。一体は巨大なグリーンランドの上に、もう一体はシベリアの北に。
でも抱えているのは、天球ではなく、赤々と燃えた篝火だった。アトラスの口の形を見ると、右は亜形で、左は吽形であった。
篝火は赤々と燃えていたが、部屋の中は暗かった。
「おかしいな」
ネズミ君がすぐにおかしなところに気付いた。
「この篝火、本当に燃えてるのか?」
目を信用している第三者からしたら、奇妙な発言に聞こえるだろう。耳を信用しないかもしれない。
でも、現場にいた僕らは、彼の発言を疑うことはなかった。部屋の明かりが、ネズミ君の持っている頼りないランプ一台分しかないことを、はっきりと自らの目で見ていたからだ。
篝火は赤々と、しかしまるで氷のように燃えていた。その炎は、部屋を明るくすることに一筋も貢献していなかった。
「フェイクだな、この炎」
ネズミ君は目を細めて赤い炎を見つめると、手を差し入れようとした。が、すぐに引っ込める。
「魔法だとしたら触るのは危険だな。明るくなくても熱いかもしれん」
「この床は大理石でしょうか?あれ、ガラスかな?」
妙子は足元に広がる大西洋を透かして見るようにした。
床の表面はツルツルに磨かれている。だが、不思議だ。僕らの姿は反射していない。黒い海は果てしなく深く広がっているように思えた。
じっと眺めていると、海の底まで落ちていってしまうような、そんな得体の知れない恐怖感に駆られた。
ふと、定位置から下に落ちていってないかと、日本列島を確認したが、相変わらず大陸と付かず離れずの位置をキープしていて、ほっとした。
影響は受けるけれども征服はされない、絶妙の位置だった。
「アヒル館の玄関って、あたしの知ってる玄関とはだいぶ違うのね」
僕も鉄子に同感である。ここは何と言うか、豪華過ぎる。
「なんとなく赤坂離宮に似てる感じはありますね」
と、妙子。この女子高生は、どうして明治の国賓が見た景色を知っているのだろうか。
だが、それよりも僕は、さっきから幻獣が赤い絨毯でガジガジと爪を研いでいるのが気にかかった。ここが赤坂離宮だとしたら永遠に出入り禁止である。永世名誉出禁だ。
「ま、行くしかないら。ここが玄関なんなら」
盗賊は赤絨毯の上を堂々と歩き、北極海まで行った。そこにある黄金の扉をガチャッと開けると、中を数秒覗き込んだ後、ガチャッと閉めてこちらを振り返った。
何か見てはいけないものを見た。彼の両の目がそう物語っていた。
「どうしたのよ」
と、鉄子。
「お前らも、見るか?」
「見るに決まってるじゃないのよ」
「じゃあ、開けるけど」
なんだろう。盗賊が押し入るのをためらうようなものがこの先にあったのだろうか。
僕はネズミ君が開けた扉の隙間から向こうを覗き込み、そして絶句した。
「……!」
中は明るかった。モワッとした湯気が漂っていた。それから、ジトッとした空気を肌に感じた。そしてこの香りは、心を解きほぐすラベンダーの香り。
湯けむりの向こうに見えたのは、風呂。
そして湯船に浸かってリラックスしている、アヒルだった。
巨大なアヒルが、四角く畳んだ手ぬぐいを頭に乗せ、浴槽にもたれてハァ〜、極楽極楽、とやっているまさにその最中。
バタン!と閉めて、顔を見合わせる。
「お前らも俺と同じものを見たようだな」
「な、何?何!?」
「アヒル…、だったわよね?」
「き、黄色いビニールのアヒルでしたっ」
念を押すが、ここはダンジョンだ。常識では想像もつかない不可思議なことがいくらでも起こりうる。
そしてここはアヒル館だ。アヒルが出てくるであろうことは想定内であったが、その登場の仕方はまるで想定外だった。
まさか、黄色いビニールの巨大なアヒルが、どでーんとふてぶてしく湯船に浸かっている姿と遭遇するなんて!
ボチャン!
何かが水を跳ねる音が聞こえた。状況によっては風流なこともあるその音は、ここでは非常に不吉な音に聞こえた。
あれ、目の錯覚か?床の黒い海を、黄色いアヒルが泳いでいるように見えるんだけど?
「何であんなところにアヒルが泳いでいるんだ?」
ネズミ君にもアレが見えるとは。だとすれば錯覚ではない。やっぱり泳いでいる。一羽、二羽、三羽…、それ以上。小さな黄色いビニールのアヒルが、列になって大西洋を横切っている。
アヒルはリベリア沖で海に潜ると、インド洋で浮かび上がった。
「え、絵に描いた海だろ!?」
ネズミ君の持つランプが震えた。
「ね、ねえ、あそこ水浸しになってない!?」
鉄子の声に入り口付近を見ると、赤絨毯が斜めに波打っていた。まるで水の上に浮いているみたいだ。
僕はさっきはあったはずの白い大陸がなくなっているのに気付いた。
「南極の氷が溶けた!?それで水位が上がってるのか!?」
「う、嘘だろ、おい。だって、これは床にプリントしてあるだけだろ?」
ネズミ君の目の奥が、もはや計算不能と告げていた。
「オ、オーストラリアが沈んじゃいましたよっ。南米も…!」
「ミャ〜ン」
妙子の慌てた声と、ゲンちゃんの情けない鳴き声。
そうこうしているうちにも世界の沈没は急速に進んでいく。北アメリカ、ユーラシア…。右のアトラスが静かに北極海に沈んでいく。
とうとうグリーンランドも消滅し、左のアトラスも足場を失った。氷のような篝火は、海に入るときにジュッと音を立てて消えた。
「ど、どうしよう?」
「どうするって、行くしかないら」
僕らは黄金の扉の前に僅かに残った赤絨毯の上で身を寄せ合った。まだ水没せずに残っているのは、もはやここのみ。
「行こう!」
短く号令をかけると、僕は扉を開けて浴室に飛び込んだのだった(x+6.4)。




