床は滑って、冒険者はエビと化す
しばらくののち、新たな一歩を踏み出すことに。
ガチャッとドアを開ける。頼りないランプの淡い光は、左右の壁を舐めるようにおずおずと前方に伸び、静かに暗闇に溶けていった。
まるでまだ人を疑うということを知らない子犬のように、1ブロック幅の通路が真っ直ぐに伸びていっているようだった。
「ここがダンジョンの底辺、要するに一番南側だね。しばらく真っ直ぐかな」
「とにかく行ってみるべ」
ネズミ君が一歩足を踏み出す。その途端に事件は起こった。
「ドゥわっ!」
すってんころりん、ずっこけてしまったのである。
ランプを守ろうとしたのが幸いして、丁度受け身を取る形になった。リュックを背にして仰向けに倒れ込み、そのままツツーと滑っていった。
「ネズミ君!ズわっ」
続いて踏み込もうとした僕も、ズルッとコケて、ツツーと滑ってしまう。ネズミ君を少し越えたところで止まった。
痛ってえ〜。
子供の頃はよくコケたものだが、もう久しくコケていない。コケるとこんなに痛かったんだと、改めて思い起こす。
下が石の床だからなぁ〜、おや、この床?と、僕は床を調べてあることに気づいた。仲間に警告を送ろうとしたその矢先、三人目の犠牲者が。
「ミャ、ミャ!ミャミャミャミャミャミャミャーーー!!」
「ゲンちゃん!」
床に降り立った四足獣は、しばらく両手両足をバタバタさせていたが、結局ベチャッと潰れた。柄の外れたフロアモップのように、ツイーっと滑って僕を追い越していく。さすが猫の毛皮。細かいホコリも逃さない。
「何、どーしたのよーっ」
扉のところから鉄子が呼びかける。
「床が滑るんだよーっ」
「気をつけろ、この床、氷みたいにツルツルだぞ!」
四輪駆動も歯が立たない、まるで北極圏のアイスバーンだ。
「ゲンちゃん、今行くよーっ」
酷寒の地を知らない、世間知らずのお嬢様が颯爽と床に降り立った。危ない、雪国の冬を甘く見ては駄目だ!
と思ったら、意外にもサーッと滑っていく。
「私、友達がフィギュアスケートやってたんですよぉ〜」
そうか、彼女はフィギュア大国愛知の出身。友達がフィギュアスケートぐらいやっていてもおかしくない。…うん、友達?
「きゃん!」
ベチャッと尻もちをつく。だよな〜。
そのままお尻でツツツイーーッと滑って、ゲンちゃんのところまで到達した。
「ひ〜ん、毛糸のパンツ履いてくれば良かったぁ〜」
ちんぶり商店で売っていないだろうか。毛糸のパンツ(守備力+1)。原料はもちろんファンタジアメリノだ。
「ほっ、はっ、やあっ」
鉄子は別の作戦に出た。両足を揃えて、アオダモの棒をスキーのストックのように器用に使って滑っていく。
そうだ、スキーだ。この滑る床に対する回答は、スキーにあったんだ。
フィギュアスケートなんていう、競技を始めた瞬間からルックスで芸術点に差がつく貴族主義的なスポーツなんかではなく、太古からある原始的ウインタースポーツにこそ、解決の糸口はある。スポーツとは生まれながらのエリートによる見世物ではなく、万人が生きるための力なんだ。
「きゃあ!」
ドデッとひっくり返る鉄子。
九州のおなごにスキーは縁遠かったとばい。
「おわっ」
ツルーと滑ってネズミ君にぶつかる。弾かれたネズミ君は玉突き式に僕にぶつかった。今度はカーリングか。
「あああ〜っ」
さっきゲンちゃんが磨いてくれたものだから、よく滑る。
が、磨き足りなかったのだろうか。お尻の冷たい彼女のところにたどり着くまであと少し。無情にもストーンは止まってしまった。
くそ〜、今回もメダルに届かなかったか。
ダムッ、ダムッと、バスケットボールだけは、少ない摩擦をもろともせずに僕の元まで来てくれた。
「なんなのよぉ〜、ここ?」
「きっと魔法で摩擦力を小さくしてあるんだ。どわっ、だっ、だっ」
立ち上がろうとしたネズミ君だったが、やっぱり床に投げ出された糸こんにゃくのように、ベチャッと潰れてしまった。糸こんにゃくを床に投げ出す人もいないだろうけど。
「ど〜するの?」
「え〜い、このまま滑っていくしかないら」
ネズミ君は長い足を側壁に引っ掛けて、つりつり滑って行こうとした。
しょうがないなあ〜。不恰好だけど、このまま進むしかないか。
「も〜う、床で泳ぐとは思わなかったわ」
鉄子はエビのように体を折り曲げ、左右の壁を交互に蹴飛ばしていった。ツルツル滑るものだから、あっという間に反対側の壁に到着する。
「おっ、あの方がいいじゃん」
それを見たネズミ君も、同じようにエビ泳ぎを始めた。
結局、これが一番早いと判断した僕ら四人と一匹は、みんなエビのようになって、壁を蹴ってジグザグ滑っていった。
通路はまだずっと先まで伸びていた。
トーン、トーン、トーン、トーン。
壁を蹴飛ばす、小気味好いリズムが暗い通路に木霊する。
その光景は、まるで神との合一を目指して一心不乱に舞を踊る神秘主義者のようであった。
トーン、トーン、トーン、トーン。
しかし、暗がりで単調な動作を繰り返していると、本当に精神がどうにかなってしまいそうだ。あたかも自分という自我を形作っていた殻のようなものが、摩擦力を失ってポロポロ剥がれていくかのよう。
蹴る、エビになる。蹴る、エビになる。
ああ、自分とエビとの境界線が溶け合って消えていく。身体は質量と延長を失い、全体の一部になっていく。すべてが一つに混ざり合い、僕らはエビ人間になってしまう。でもそれが気持ちいい。そうだ、これは世界が誕生したときから定められていた運命。時期が来たら発動するようにDNAに組み込まれた、神のスイッチ。人類はエビと一体になる。アルファベットがエビから始まるのは、偶然ではないんだ。
ただバスケットボールだけが、その身体性と個性とを持続していた…。って、何考えてんだ。
「と、着いた〜」
ようやくツルツルの床が終わって、体の下に確かな摩擦を感じた。
ふう〜、冒険者をエビにしてしまう魔の通路か。学園はとんでもないトラップを用意したものだ。




