こころは軽やかならず、女は幻
僕らは購買部に行く道すがら、会話をすることとなった。
「ねえ、無学君。僕は馬鹿だろうか?」
いきなり何を。急に重いテーマ。彼から軽い話題が出るということもないだろうけど。
「さあ、馬鹿にもいろいろある。それを一緒くたに単純な言葉で表現してしまうのは、ちょっと乱暴過ぎると思うけど」
あるいはボキャブラリーの欠落か。とはいえ、人を罵倒する言葉が達者なのにも困りものであるが。
「例えば、どうしてもこれは実現させなくてはいけないという目標があるとする。そのためには、人生の何もかも投げ打っても構わないという大目標だ。それなのに、他のことにうつつを抜かすとしたら、それはやはり馬鹿だろうか」
「それがもっと夢中になれて、自分にふさわしいと感じられるものであれば、いいんじゃないかな。目標が変わることだってあるよ」
独出君の顔は、何か耐え難いものを耐えているように見えた。僕の答えは、あまりにも一般的過ぎて彼には届かなかったかもしれない。でも、一般的に言って一般的な問いには、一般的にしか答えられないのが一般的だ。一般的でないケースを除いては。
「一般的にはそうだろう。一般的な真実だ。でも、それを知りたいがために、わざわざ君みたいな人の意見を聞くと思うかい?」
これまた捻くれたマウント取りだな。どうせ僕は一般的ではありませんよ。でも、それを言うなら独出君こそ、特殊だと思うがね。
「それにはもう少し、特殊な事情を知りたいね」
そうでないと、いくら僕にだって答えようがない。
「確かにここには特殊な事情がある。特殊ではあるけど一般的な事情が。つまり、それが、その人一人の問題で済まないってことさ」
特殊な事情には収まらない一般的な事情。特殊と一般という対極は、その両端で繋がっているのだ。
「君が言いたいのはこういうことかい?その大目標とやらには、君以外の人も絡んでいると。君が目標から逸れることで、誰かを裏切ることになる」
僕は彼の質問を形成するためのアシストをしてやった。できれば回答者に専念したいのだが、あまり一般的に過ぎても話が進まない。
でもきっと今、心を開こうとしてくれているのだ、この誇り高き孤独者は。重たい錠のかかったその純真な心を。だとしたら、少しその助けをしてやってもいいかもしれない。
僕らの重たい空気とは正反対の、世の中にある責任から解放されたような雰囲気の学生たちが、軽やかに真横を通り過ぎていった。
彼らの胸には、遊民科を示す夏目漱石のバッジが輝いていた。
「僕が言いたいことではないかもしれないが…」
だったら何が言いたいのだ?と、子供の勇者が顔を出しかける。否、彼と対するには限りなく大人であらねばならない。
「多くの人の期待を背負って故郷を出てきたとして、それを途中でうっちゃるというのは、個人だけのケースよりも罪が重いと思うかい」
「罪かい?それなら、誰に対して罪を負っているかによるんじゃないかな。それが人だとしたら、その人が君のことをよく理解して許してくれれば。あまりにも一度決めた目標を変えることを許さないというのは、その方が罪だと言えないだろうか」
しばらく僕らは黙って歩いた。今の回答で彼の心に届いただろうか。
「そうじゃないよ。僕が言っているのは、そういうことじゃない。人に対して罪を負うとか、そういうフワフワしたものじゃないんだ。もっとこう、がっしりと地中に根が張っている大木のようなものなんだ」
届かなかったらしい。
しかし彼も混乱しているのだ。似つかわしくもない、感覚的な説明になっている。その感覚は僕にわかるものだろうか?
「要するに、君の言う罪というのはもっと原理的で根本的なものなんだ。例えばキリスト教で言うところの原罪のように」
「例えば夢を追って東京に出てきたとする」
そこで彼は言葉を切った。例えば僕の質問には答えてくれないのだということはよくわかった。
「そうだな、例えば、法律家を目指して東京の大学に入ったとする。司法試験に合格するためには、卒業後もまだ勉強が必要だ。当然、実家から多大な援助を受けている。受け続けなくてはいけない。それなのに、例えば、例えばの話だよ。たまたま出会った女の人に夢中になってしまって、この人のためにはどうなったっていいという気にさせられたとして、この人を幸せにするためにはどんなことでもしてあげたいと思ったとして。そのためには、司法試験を諦めて会社に就職することも許されるんだろうか」
あれ、女の人の例えできたか。僕が一番苦手な分野だけど、この人からそんな話が出るとは思わなかったな。
「つまり君の問題の中心には、ある女の人の存在があると。いや、あくまで例えばの話だけど」
「女の人と言っても、変なことを想像しないでほしいな」
「もちろん。女の人と言っても、母親とか妹とか、いろいろあるし」
そうだ。彼には故郷で兄の帰りを待っている、歳の離れた妹がいる。ゴールデンウィークには帰ってやれなかった。今度のお盆には、あいつの顔を見に行ってやらなければ。土産は何にしよう。お人形さんがいいかな。いや、あいつももう小学校に上がったんだ。そんな子供っぽい遊びはしないべ。そうだ、綺麗な文房具がいいだ。田舎じゃ手に入らね、めんこいお花さついたセルロイドの筆箱でも買うてくべさ。
「ほら、ナユキ。お兄ちゃん、お土産持ってきただ」
「やだぁ、お兄ちゃん、何これ、だっさ〜い。せっかく東京に行ったってのに、そりゃないわぁ。私、iMyone13Proが欲しかったぁ〜」
「ナユキ!おめ、方言さ、どした!?」
ああ、なんということ!お兄ちゃんがちょっと目を離した隙に、ナユキは不良になってしまっただか!ああ、小さくとも、やっぱり女は女だったべ。
「いや、女ってのは、そういうんじゃないよ」
「え?」
「いや、女ってのは、君はすぐにいかがわしい想像をしてしまうだろうけど、そんなんじゃない。僕は純愛のことを言っているんだ」
あ…、ごめん。すぐ隣に当事者がいるってのに、ついうっかり妄想の世界に入り込んでしまった。
彼に妹がいるかどうかも不明だった。妄想の中で勝手に架空のナユキちゃんをこさえてちゃ駄目だ。




