同情は禁物、かわいそうなのは誰だ?
「そうか、それは大変だな、お嬢ちゃん。じゃあ、俺たちもう行くからな。勇者、行くぞ」
と、ネズミ君は僕を急かした。
「でも…」
「俺たちがモンスターのことに首を突っ込んだって、どうしようもないら。こいつらは俺たちとは違うんだぜ。無責任な同情は禁物だ」
そうだけど。そうだけど…。
僕たちとは違う。その通りだ。ネズミ君の言うことは正しい。僕たちとは違う。
でも、だからと言ってこれでいいのだ、ということにしておいてもいいものなのだろうか。
ネズミ君は僕に顔を寄せて囁いた。
「なあ勇者、お前の気持ちはわかるけど、モンスターはモンスターだ。こいつらは俺たちが来るずっと前からここにいたんだぞ。長年ここでやってきたんだ。ここにはここの論理ってもんがあるんだ。俺たちのちっぽけな頭で判断できるようなことじゃない」
そうだけど、そうなんだけど。論理的にはそうなんだけど、僕の感情は立ち去り難くまるで根が生えたようにそこに留まっていた。今すぐ感情を殺して筋肉を動かさねばならないのだけれど。
でも、感情というのはいつも論理に駆逐されるべきものなのだろうか。人と会ったときに無感情で無表情でいたら、逆に否定されるというのに。感情無しの笑顔なんて残酷なこと、僕にはできない。
「ねえ、夢見てって」
すんは僕の葛藤など存在しないかのような、野生的で妖しげな目をこちらに向けた。
この子は、元からこんな目をしていたのだろうか。それとも、ここで生き抜いているうちにこんな目になってしまったのだろうか。
「すぐ終わる。お姉さまみたいに、入り口まで連れてってあげられないけど、ゆっくりしてってもいいよ」
「誰か、どっかに一枚ぐらい残ってないかしら」
ずっと黙っていた鉄子が口を開いた。同性としてどう思っているのかわからないけど、激情型のスケバンは、僕とそんなに遠くないところにいるように思えた。
「…誰か、持ってるか?」
盗賊の足元も少しぐらついたか?
「俺は隅から隅まで全部調べたぜ。無駄だったけど」
僕は松明を床に置いて、ズボンのお尻のポケットからブレザーの内ポケットまで、全部ひっくり返してみた。ゴールド小僧がバラまいたのを拾ったときのコインが、どこかに残ってないだろうか。が、そんなものがとっくになくなっているのは分かりきっていた。
妙子を見ても、首を振るだけだった。獲得した異世界ゴールドは、全部ネズミ君に託していたのだ。
「お兄ちゃんだけでもどう?2ゴールドでいいよ」
すんの赤い目は僕を映していた。
「あんまり乱暴な人は嫌いなの。お兄ちゃん、賀茂野のお兄ちゃんに似てるから。もし一枚しかないなら、一枚でもいい」
あんなイケメンに似てると言われて、非常にショックである。
「わたし、こんなところにいるでしょ?あんまりここまで来てくれる人、いないの。お姉さまたちみたいに、さって攫ってくることもできないし。エサが少ないから、大きくならないの」
エサ…。そう、彼女たちにとって、僕らはあくまでもエサだ。
「あっちにはね」
と、右の壁を指差した。
「いろはお姉さまたちがいるの。この壁の向こう。そっちがメインなんだって。綺麗なお姉さまたちがいるところ。扉があってね、鍵を持っている人なら、近道して行けるんだよ。サキュバスはでもね、扉の外には出られないの。ずっとこの中、闇の中。ここは場末なんだって。こっちは人が来ない。わたしもね、いつかあっちに行きたいの。でもずっとこっちにいる。こっちにいた方がいいのかな」
すんは猫の首筋に顔を埋めた。猫のすんは何かを感じたのか、首を回して飼い主のほっぺをチロチロと舐めてやった。
今いるところに慣れてしまうと、そこにいる自分を正当化してしまう。すぐそこに扉はあるというのに、開けることはできない。
「ねえ、お兄ちゃん1ゴールド。夢見てってよ」
値段は下がるところまで下がった。はたしてそれは彼女のなのか、それとも僕のなのか。なんか、僕のような気が強くした。
床に置いた即席の松明が、ロープを半分残して静かに消えた。それまでランプの光と相まって明るかった部屋の中が、急に太陽が沈んだように暗くなった。中途半端に灯された光は不完全燃焼のまま、嫌なにおいだけを残してどこかにいってしまった。
「勇者、もう行こう。なあ、お嬢ちゃん。悪いけど俺たちは本当にお金がないんだ。嘘だと思うだろうが、本当の本当に1ゴールドもない」
すんは目を丸くして驚いたようだった。
「本当?本当に1ゴールドも持ってないの?」
「ああ。こう言っちゃなんだが、昨日お姉さまとやらに全部持っていかれた」
「それって、しゑお姉さまのこと?」
「いや、何お姉さまかは知らんが、とにかく1ゴールドもない」
「かわいそう」
かわいそうって。すんにまで同情されたらたまらない。
「いや、いいんだ」
ぶっきらぼうにそう言って、ネズミ君は妙子からランプを受け取った。
「何してる。行くぞ」
僕ら3人は割り切れない表情で顔を見合わせたが、何か他に出来ることも思い付かなかった。
「お兄ちゃん」
運命を受け入れたような幼い声が、細く空気を震わせた。
「お兄ちゃん、これあげる」
差し出された白い手のひらには、金色に光るものが2枚あった。
「1ゴールドもないんでしょ。わたし今、3ゴールド持ってるから、これだけお兄ちゃんにあげる。持ってって」
さっきの複雑な感情が、竜巻のように舞い上がって、心を切り裂いていった。疑い、怖れ、悔しさ、焦れったさ、やり切れなさ、無力感等…。自分の上辺に付いていた、そういったものが強風に吹き飛ばされて、僕を丸裸にしていく。
「すん…」
最後まで僕に残っていた感情は、情けなさだった。
「すん、悪いけどそれは受け取れないよ」
「どうして?」
「分かってもらえないかもしれないけど、僕らにだって僕らの事情があるんだ」
うまく説明出来なかった。それだけ言うので精一杯だった。
「大丈夫。僕らはお金がなくたってうまくやって行けるんだ。今までだってそうしてきたんだ。だからそのお金は君のもので、大事にするんだよ」
すんはコクッと頷いただけだった。
「じゃあ、僕たちもう行くよ。ありがとう、君の気持ちだけ受け取っておく」
手を振って立ち去ろうとする。長くいてはいけない。ここは僕らが長くいてはいけない闇なんだ。
「お兄ちゃん」
「何だい」
「もう帰るの?」
「う、うん」
「じゃあ、さよなら」
「う、うん。さよなら」
すんはヒラヒラと白い手を振った。良かった。引き止められるのかと思った。
「お兄ちゃん」
「な、何だい?」
「また来てくれる?」
それは無垢な「また来てくれる?」だった。飾り気も商売気もない、素直でありのままの「また来てくれる?」だった。
「ごめん、それは出来ないと思う」
「そう…」
すんの表情はがっかりしたのか、それとも何とも思っていないのか。人生経験の乏しい僕には判別が付かなかった。
ネズミ君の手が僕の肩に置かれた。
「勇者、もう行くぞ」
その通りだった。それはまったくもって、その通りだった。些かの誤謬も含まない真理だった。
「じゃあ、さよなら」
もう一度手を振って、僕らはすんの前を立ち去って行く。もうじき闇の壁を越える、そのときだった。後ろから声が聞こえた。
「さよなら。お兄ちゃんたち、ありがとう」
ありがとう、だなんて…。
ただすんは儀礼的なものとしてその言葉を言ったのだろう。でもそれは僕の胸の奥にナイフのように突き刺さった。
僕らはありがとうなんて言われる資格はないんだ…。
「すん…」
たまらずに僕は振り返る。そのとき、視界が真っ暗になった。
「すん、元気で!立派なサキュバスにおなりよ」
ギリギリという足音を立てて、僕の体は光ある方へと進んだ。




