海は広くて、労務環境は酷い
「ほっほっほ。お若いの、闇に当てられたようじゃの」
シルバーフィッシュは笑った。
闇に当てられる、か。ありそうなことだ。
「あんまり闇に慣れすぎると、地上に出て行けなくなるわい。儂らみたいにな。ほっほっほ」
気をつけよう。異世界には行きたいけど、モンスターにはなりたくない。
ダークゾーンを抜けた先は玄室になっていた。そこの扉を開けて次に進む。
「ここも隠し扉か?」
ネズミ君の声に振り返ると、今通ったはずの扉はどこにも見当たらなかった。見た目も手触りも、完全にただの石壁だ。
シルバーフィッシュは僕らを無視して、右側にある扉を示した。
「ここを開けて進めば、便所キリンのいるフロアに出られる。じゃが、一つ航海といこうかの」
ほっほっほと笑って、扉とは反対方向へと歩みを進めるシルバーフィッシュの後を付いて行く。ここはしばらく通路であった。
「航海?なんだそりゃ。じーさん、それよりここがどの辺にあるか教えてくれよ」
「ほっほっ、盗賊よ。お主はせっかちよのう」
シルバーフィッシュは頭の上で手をヒラヒラさせた。
すると、ボッボッボッと、図書館で見た、人魂みたいな青白い光がいくつも現れた。これはこの老人が操る鬼火か何かであったか。
「良く見えるようにしてやったから、ちゃんと己の目で確かめてみなされ」
「何だよ、一体…。ん、おおお!?」
あり得ないといったように驚くネズミ君。すぐに僕らにも同じ驚きが訪れた。
「うわぁ〜、広いわね……」
鉄子はそれきり言葉を失ってしまった。
「ニャア…」
「ひゃあ…」
飼い主はペットに似てくるというのは本当らしい。妙子は、ゲンちゃんと同じ形に口を開けたまま固まった。
黒い地面が波打っている。
ザザア、ザザアと胎教によさそうな音。
カルキ臭とは違う、生きた自然の、生臭いにおい。
「海だね…」
思わずそう呟いたが、すぐに何を馬鹿なこと言っているんだろうと思った。
「そんなわけないか」
「いや、海だぜ」
常識に屈したつもりだったが、すぐにパーティきっての常識人によって否定された。
ネズミ君は床と水面の境目まで行ってしゃがみ、指をつけたり、それを舐めたり、においを嗅いだりした。
「間違いない。海だ。駿河湾の専門家が言うんだから間違いない」
「まさか」
「フジツボも付いてるし、ブイもある。それにこの潮風…。お茶の淹れ方を忘れたって、静岡県民がこの風を忘れることはない」
そうかい?静岡といえば、海よりお茶だけど?でも、確かに海の側で感じるような風が、僕の頰にも当たっていた。ブイらしき丸い物体も、所々浮かんでいるのが見える。波に揺られてか、規則正しく上下していた。
「ほっほっほ、驚いたかの?プールじゃないぞよ。サイズはミニチュアじゃが、本物の海じゃ。地下迷宮にある、正真正銘の本物の海じゃ」
シルバーフィッシュが誇ったように言った。
常識的に考えれば、地下にある建造物に海があるわけはない。これはプールと考えるべきだ。だが、ダンジョンでは時に常識が非常識になる。あるいはこの両者は元々表裏一体なのかもしれない。昨日の常識は今日の非常識。僕らが立っている地面は案外、当てにならない。
「あの音は、こういうことだったんですね」
妙子が言った。ザザザザ、という波の音は、まさしく閉じ込められていたときに聞いた音だ。ということは、さっきの場所に近いのかな?
「ささ、早く乗り込みなされ。今からそなたたちを感動の船旅へと案内して進ぜよう」
そこは、船着場のようになっていた。桟橋を備えていて、小型のボートを係留していた。いや、それは小型の船と言った方が適切かもしれない。サイズ的には少人数のパーティが乗るのにちょうどいいが、外観はまったくの船であった。
まるで大型の帆船をそのまま何分の一かに縮尺したかのようだ。大きな一枚布の帆が張られている。帆には、真ん中がすぼんだ赤い十字架の模様がついていた。それは歴史の教科書で見た、コロンブスのサンタ・マリア号に似ていた。
船には左右に4本ずつ、短い櫂が付いていた。
全員が乗り込むと、シルバーフィッシュは碇を上げた。
「本来なら自分たちで漕いでもらわねばならんが、今日は儂が運転してやろう」
老人は何やら口の中でムニャムニャ呟いた。
すると、背後からブワアア…、とたっぷりした風が吹いて、帆が膨らんだ。そろそろと船が進み始める。
「凄えな、じーさん。ただの図書館司書かと思ったら、そこそこの魔法使いじゃん」
ネズミ君が驚く。
「ただの図書館司書とは何事じゃ。魔法使いになるより難しいぞぇ。サービス残業も多いしのう…」
この学園の労務環境がどうなっているかはわからないが、真面目な人ほど損をしそうなイメージはある。
「ここにも人面魚はいるのかしら?あれは淡水魚だったかしらね」
鉄子が水面を見つめてポツリと呟いた。水を見ると人面魚の公式が、僕らの中にできあがっている。
「ここのダンジョンにいるのは淡水生だけじゃが、異世界には海水生のものもおる。回遊するものもおるし、深海にも住んでいる。あいつらは繁殖力が強いし、何でも食べる。その上、ずる賢いときてるから、どこにでもおるわな」
なるほど、人面だけあって、人類の特色を備えているわけだ。
「お爺さん、あの棒は何ですか?」
妙子が指差した方角には、竹竿みたいな棒が海面から何本も生えていた。
「あれはダイタラボウのくちばしじゃよ」
「ダイタラボウ?ですか?」
「海中に本体があってな。近付くと引きずり込まれるから注意なされよ、お嬢さん」
ひええ、とお嬢様はゲンちゃんを抱きしめた。
「ほっほっほ。そう心配なさるな。くちばしを掴んでやれば、おとなしくなるでの。ダイタラボウの髪の毛は、うまい海苔になるから、時々引っ掴んで海から上げて、毛を刈ってやる。また海に放り込んでおけば、半年ぐらいで毛が生える」
ダイタラボウがどんな姿か知らないが、くちばしを掴まれて髪を刈られるところを想像して悲しくなった。
異世界は広い。広いということは、悲しい生き物もそれだけいるということだ。
異世界が無限にあるように、悲しさにも底はない。
船は途中、二度ほど向きを変えて進んだ。二度目のターンをして程なく、船着場に到着した。
海の真ん中に、数ブロック分の足場があって、遠くからでも昇りの螺旋階段が見えていた。まるで海から立ち昇る竜巻のようだ。
帆を押す風が徐々に弱まり、船は桟橋のちょうどいいところで止まった。
「ほっほっほ。どうじゃったかの、船旅は?」
シルバーフィッシュは碇を下ろした。
「景色がよかったら、最高だったわよ」
鉄子がヒョイと大股で降りる。やっぱり人間には陸地の方がいい。たとえそれが石のブロックであっても。
「お爺さん、ありがとうございました」
礼儀正しく妙子はぺこりと頭を下げた。
「よっ、じーさん、センキュ」
ネズミ君も降りる。僕も降りよう。
「ありがとう、シルバーフィッシュさん」
「ほっほっ、礼には及ばん」
老人が頭上で手を振ると、青い鬼火は消え、真っ黒な海が不気味に広がった。




