パンは心を開かせ、闇はときめく
翌日のザビエル暦五月第四週三日目、僕らは扉を開けて次のエリアに進んだ、のであるが、その前に午前中の授業ではおかしな体験をした。
マタドール先生曰く、異世界で役に立つスキルを身につけるということだったのだが、本当だろうかと首を傾げてしまった。
「中には和風の世界もありマス。珍しいですが、中華風やインド風のものもありマス。ですが、基本的に異世界は中世ヨーロッパ風の世界が主流デス。人間にとって最も重要なことは何か、それはどんな世界でも一緒デス。食べることデス」
誰も異を唱えることのない普遍的一般論に続いて、本日の議題が登場した。二つの文章の間は、順接の接続詞で繋がれていた。それも非常に強固な論理的必然性を表わす、順接の接続詞だった。
「ですから、パン作りを学びマス」
だが僕の国語力では、どうしてもそれらの間に繋がりを見出すことはできなかった。
僕らは家庭科実習室に移動してきていた。この学園にもこんな部屋があったというのは驚きである。
マタドール先生は闘牛柄のエプロンを腰に巻いて、ノリノリだった。僕らにも無地のエプロンが配られた。こちらは首からかけるタイプである。
「パン作りができれば、日々の糧食に困らないだけでなく、贈り物にも最適デス。閉鎖的な村人も、気難しい祠の老人も、バター香る焼き立てのパンを持っていけば心を開いてくれマス。寂しがり屋のお姫様は、甘いクリームパンでイチコロデス。お城の宝物庫の鍵のありかも王様に化けた怪物の弱点も、なんでも喋ってくれマス」
本当かなあ?誰もが極度のパン好きとは限らないけれど。
単にマタドール先生の趣味を押し付けられているだけなんじゃないのかな。
今にまた玉音銀次郎から盛大に反対意見が出るぞ、と思っていたら、逆だった。
「フフフ。僕はこの授業を受けるのを楽しみにしていたんですよ。ここはひとつ、皆さんに玉音家に代々伝わる秘伝のレシピで作った、とっておきのパンを召し上がってもらいましょう」
玉ねぎ柄のエプロンまで持参して、やる気マンマンだった。
「玉音君は異世界に行っちゃって休みだと思ってたのに」
板東組代さんはあまりパン作りに乗り気でなさそうだ。
「とんでもない。この授業のために冒険を途中で切り上げて僕だけ戻ってきたんです。いくら異世界の人たちが助けを求めているからといって、学生の本分を疎かにするわけにはいきません。異世界と現実世界を両立してこそ、充実した学園生活ですから」
野営のときはかったるそうにしてたくせに。あれの評価点が酷かったから心を入れ替えたのか?
「それは楽しみだなあ。僕もパン作りには、ちょいとこだわりがあるんだよ。なにせ僕はパン屋さん激戦区京都の出身だからね」
駿野伏男君がしゃしゃり出てきた。この人も空気を読まないよな〜。京都のパン屋さんか。確かにおいしそうだけど、京都の人はなんでも京都が一番だと言いそうだ。
駿野君は焚き火台を広げて、火打ち石で火を起こし始めた。
「備え付けのオーブンあるのに。ウケる」
と、板東さん。
「よく考えてみるんだ。異世界に行ったらこんな設備の整った部屋でゆっくりパンをこねてなんていられないぞ。キャンプと同じ状態で練習してこそ、本番で対応できるんだ。キャンプだ、キャンプだ。異世界の基本はキャンプなんだよ」
そういえば、野営実習のときも彼はピザを焼いていたな。こういうの得意なんだろうな。
駿野君はしばらくチャカチャカと火打ち石で火を起こそうとしていたが、やがて諦めてライターで火をつけた。そういえば訓練のときもこの人、これだけは苦手だったよな。
一方でマタドール先生は、普通に冷蔵庫から材料を取り出し、ポットのお湯を冷まし、ラップを被せ、オーブンの発酵機能を使った。
「インスタントドライイーストを使えば、予備発酵なしで簡単に作れマス」
なんかカタカナが多くてよくわからないが、異世界ではありえない不正をしていることだけは理解できた。
必要性はイマイチ理解しがたいが、なんだかんだで生徒たちは楽しんでパン作りをしていた。まあ、いいか。昼飯代が浮くし。
しばらくすると、バターのいい香り、というよりは、目に染みるようなにおいがしてきた。
「どうだ見たまえ、この造形の美しさを。完璧な比率と曲線美。優雅な中にも力強さを感じさせる佇まいだ」
玉音銀次郎がオーブンから取り出したのは、見事に玉ねぎ型に膨らんだパン。
「ウケる。どうやったらこんなのになるのよ」
「フフフ。イースト菌の代わりに、純粋培養した玉ねぎ酵母を使っているのだ」
板東さんの皮肉はポジティブに魔解釈された。
「さあ、みなさん、どうぞ召し上がれ」
と、一口サイズに切り分ける。
「まずいアル。日本の食パンの方がうまいアル」
「な!あんなショートニングでごまかしたようなのはパンとは言えん!君は味覚が子供過ぎるのだ」
「味がないアル。中に何にも入ってないアル」
そういう王さんは、世にもおぞましい食べ物を作っていた。
「王さん、何これ?」
「スターゲイザーアルヨ、知らないアルか?イギリスのニシンのパイアル。ニシンがなかたから、人面魚で代用したアル」
パイから突き出た人面魚が星空を見上げていた。
「うわ、おいしーい」
板東さんがウケずに素直に感動しているのは、駿野君のパンだ。僕も少しいただいたけど、確かにうまい。シンプルな丸いパンだが、小麦の味わいとイーストの風味を素直に堪能できる。添加物でごまかさない、職人の腕が試されるパンだ。
「コーヒーも用意したよ。コーヒーのないパンなんて、鴨川の流れが止まった京都のようなものなのだから」
相変わらず丁寧な仕事ぶりだ。彼は無骨に憧れてるんじゃなかったっけ。
そろそろ僕のパンも焼けた頃だな。オーブンを開けて確かめる。どれどれ、うん、ふっくらしていい感じ。
……。おや?
なんか背中にゾクッとするものを感じるのだが。
振り返ると、たった今冥界から帰ってきたばかりのオルフェウスといったオーラをまとった、闇野あかりさんがいた。
「ねえ無学君。私のパンと取り替えっこしない?」
「い、いいけど?どうしたの、そのパン」
闇野さんのパンは、アオミドロが繁殖し過ぎた池みたいな色をしていた。
「ちょっとね、薬草入れてみたの。無学君、疲れてるみたいだから」
疲れてると言われると否定はできないね。生まれてこの方、ずっと人生に疲れているよ。
恐る恐る食べてみたら、薬草の風味がする普通のパンだった。
「おいしいね。ヨモギか何か?」
「違うよ。オチムシャソウ」
「落ち武者?なにそれ」
「オチムシャソウっていう、異世界に生えてる草だよ」
「……。勝手に持ってきちゃ駄目じゃないの?」
「うん。だから、全部パンに入れた」
いや、それ以前の話。
「知り合いの魔王がね、オチムシャソウのパンが好きだったの。だから無学君にもどうかと思って」
このクラスは先生も生徒も順接の接続詞の使い方を間違っている。
「知り合いの魔王って」
「退治に行ったときに知り合ったの。その前から噂は聞いてたんだけどね」
「噂?」
「うん。異世界に行くと村人とかみんな魔王の噂してるから」
「一応聞いとくけど、その魔王は今はどうしてるの?」
「先輩が倒しちゃった。ちょっと残念かな」
「残念って」
「あの魔王も私の魔王じゃなかったってこと」
そう。そのうち会えるといいね、君の魔王に、と言いかけて、冷静になってやめた。
「パンおいしかった。そっちはどう?」
「うん、無学君が焼いたのも、おいしかったよ」
それはよかった。でも闇野さん、なんでそんなに驚いたような顔してるんだろう。
「無学君、すごいね。オチムシャソウのパン食べても平気なんだ」
「え?」
貧乏ゆえに多摩川でサバイバルしてきた僕は、食べられるものならなんでも食べるが?
「オチムシャソウって、魔王には滋養強壮になるけど、人間には毒のことが多いんだって」
「………!!」
「やっぱり、無学君って私の魔王かも」
深淵を覗いたような闇野さんの瞳は、ただただ黒かった。




