猫は悟りを開き、虫は強い
「ふうっ。なーんか、二日間くらい潜ってたような気がするなぁ〜」
学園に戻ったら、僕らはすぐに夕食にすることにした。ノブさんの酒場は、いつの時間も学生の姿が絶えることはないが、まだピークには早い。
ネズミ君はうーんと伸びをすると、プシュッとコーラのペットボトルを開けた。
シュワシュワと、僕のグラスにも注いでくれる。普段はジュースはないけれど、今日は地下一階コンプリート祝いである。
コーラは最初薬品を飲んでいるみたいだったが、少し慣れてみるとおいしさがわかるようになってきた。ネズミ君曰く、紙コップの自動販売機は薬っぽさがある、ということだ。
「あたし、一週間ぐらい行ってたような気がする。きっと読書をすると脳がエネルギーを消費するのよね」
だから鉄子は脳に栄養を供給するために、カツ丼とカツカレーを同時に食べようというのか。今の台詞だけ取り出せばなんら怪しむべきところはないが、あの読書は肉体労働しかなかった気がする。
でも僕もお腹ペコペコだった。お菓子の家をつまみ食いしたけど、雛人間のごちそうは甘酒を舐めただけで終わってしまったのだ。
「じゃあ、いただきます」
「いただきまーす」
「ニャニャニャニャニャーニャ」
みんなにコーラが行き渡ったところで、いただきますをした。お行儀の悪いネズミ君は既に食べ始めていたが。
僕はチキンカツ定食。こないだネズミ君が頼んでいて、気になっていたアレだ。あのときは半分もらったけど、急いで食べたから味がわからなかった。それで今日は同じものにしようと思ったんだけど。
券売機の隣、ショーケースの中に並んだ食品サンプルを見て迷ってしまった。
チキンカツはチキンカツでも、ソースの種類が色々あるぞ?
前回もらったのは確か普通のソースだったと思ったのだが。
その他にも、茶色いソースがかかったものやら大根おろしが乗ったもの、白いソースやトマトソース、中華風のソースにハーブのソースまであった。
ムムム!ノブさんめ、たかが学生食堂にどれだけ力を入れているというのだ。
それともチキンカツというと、このくらいのソースバリエーションがあるのが標準なのだろうか?飲食店は、ウチはこれだけのソースバリエーションがありますからチキンカツを提供することを認めてください、と言って役所に届け出ないと認可がもらえないのだろうか?それとも全国中のチキンカツを提供している飲食店の中で、まさにこここそがチキンカツのソースバリエーションにおいて最も頂を極めた店なのだろうか?
「勇者さん、どうされました?」
うーんと悩んでいると、妙子に声をかけられた。
「いや、チキンカツ定食にしようと思うんだけど、ソースが色々あるなと思って」
妙子はショーケースを一目見るなり言った。
「そりゃあもう、断然デミグラスソースですよ」
そう言って彼女はボンゴレビアンコの食券を買ってとっとと行ってしまった。
そうなのか。チキンカツはデミ、デミ、デミ、なんだっけ。デミウルゴスソース?世界を支配しそうなソースだな。
と思ってボタンを見たら、デミグラスソースと書いてあった。そうか、デミグラスか。チキンカツにはデミグラス。覚えておこう。
なんていう経緯があって、僕のチキンカツには茶色いソースがかかっていた。おまけにスライスされたマッシュルームまでソースに浸っている。
うむ、初めての経験だ。慎重にいかねば。カツは予めカットされている。そろそろと箸の先を、一番真ん中の一番デミグラスな部分に入れた。
そっと持ち上げ、一口かじる。ジュワッと染み出す鶏肉の油とソースの濃厚な旨味。衣の香ばしさとソースの甘さがお互いの良さを引き出し合っている。
ううむ、これがデミグラスか。ファビュラスかつグラマラス、グラジオラスであり同時に釜揚げシラスでもある。僕は何を言っているのだ?
向かいに座ったネズミ君はシラス丼を頼んでいた。釜揚げシラスと生シラスを半分ずつ乗せた真ん中に卵黄を落とし、さらに細く切った青じそがまぶしてある。こいつはてぇしたちそうじゃねぇか。
ううむ、たった今デミグラスの感動に打ち震えたばかりだというのに、もう目移りしてしまっている。
自分の中に眠っていた江戸っ子のDNAまで呼び覚ましてくるとは、ノブさんやりおるのぉ。
しかし生と釜揚げのダブルとは。本当に高校生が食べてもよいものなのだろうか。それとも高校生のうちからこういうものを食べないと、ノブさんみたいなナイスミドルにはなれないのかもしれない。いずれにせよ、ノブさんの酒場にはおいしいものが多過ぎる。
今度はシラス丼にしようか?いやいや、いかんな。地下一階をクリアしたからといって浮ついていてはいけない。それともコーラを飲んで気が大きくなっているのか。アルコールじゃあるまいし。
「ゲンちゃん、もうごちそうさま?えらいねぇ、残さず食べたねぇ」
テーブルの下でねこでんねんをかじっていたゲンちゃんが、食事を終えて妙子の膝に登ってきた。
猫はいつでもねこでんねん。すぐに煩悩に塗れる人間よりも悟りに近い。僕も多摩川の河川敷でイナゴを獲って飢えを凌いだ日々を忘れてはならない。
結局、パーティ全体に気の緩みが見られ(食後はシュークリームで互いの健闘を称え合った。ゲンちゃんは既にお腹いっぱいで、妙子の膝でうつらうつらしていた)、明日は探索を休みにして、来週から地下二階へのアタックを開始することにした。
翌日、ザビエル暦五月第三週五日目の午後、僕は学園内をぶらぶらしながら、午前中の授業を振り返っていた。
その日勇者科の一年生は、異世界物理学の授業で新たな魔法を習得していた。
「今日はアミーゴスにムーチャス便利な魔法を伝授するデス」
外は曇天模様であるが、どんなときにも揺るぎないラテン系テンションのマタドール先生は最近口髭を伸ばしている。元々ダリにそっくりな先生だが、そこだけがダリと見分けるポイントであったのに、やがてダリだかわからなくなってしまう。
「ハエ、蚊、ゴキブリ。異世界の夏は、日本とは比べ物にならないくらい嫌な虫で満ちています。そんな状況でも冒険者は野営を行わねばなりません。そこで、害虫避けの出番です。この呪文を唱えると、一定時間、自分より弱い虫が周りによってこなくなりマス」
覚えたのは、虫除けの魔法だった。
その方法はというと。
「虫さんいや〜ん、近寄らないで。嫁入り前の大事な体。軽い女じゃないわよ、見くびらないで。あんたみたいな男はしっしっし」
マタドール先生は腰をクネクネさせながら、しっしっと手で払う仕草をした。
「さ、最悪」
板東組代さんはドン引きした。
「先生、もっと別の方法はないんですか。パアーッと虫を一網打尽にしてしまうものとか」
珍しく、玉音銀次郎の利害とみんなの利害が一致した。
「害虫駆除ですか?害虫駆除の魔法は害虫駆除業者が使いマス。日本では電話で呼び出しますが、異世界では魔法で召喚しマス」
ここで出てきたか害虫駆除業者。しかし勇者はその魔法は使えないらしい。
「君の先輩は虫除け使ってる?」
僕は闇野あかりさんに聞いてみた。彼女は先輩のパーティについて異世界に行ったことがあるのだ。
「ううん、なんか蚊取線香みたいなの持ってる。先輩はゴキブリが苦手だから、虫除けの魔法を使ってもゴキブリには効かないんだって」
そうか。あくまで自分より弱い虫か。




