犬は朽ち果て、猫は昇天す
「無学です。こちらこそ」
彼女は僕の本名を知っているとは思うが、フルネームで言うのは躊躇われた。
「ネズミさんにこんなかわいらしい妹さんがいたなんて、夢にも思わなかったですよ」
と、妙子。貶しつつ褒め、褒めつつ貶す。
「えっと、中学三年生なんだよね。来年入ってくるんだ」
「はい。私はお兄ちゃんなんかと違って、ちゃんと勉強して勇者科に入りたいと思います。そのときはよろしくお願いします」
「そうなんだ。頑張ってね」
殊勝な心掛けだね。その調子でしっかり勉強するように。でも僕も中学校で勉強したことは、ここの受験では全く役に立たなかったのだけど。
「そういえば鉄子さんは?」
ここにいるのは妙子とかすみちゃんだけだった。鉄子に軍団の子、それにケルベロスも一匹もいない。
「あ、鉄子さんたちは今ケルベロスを散歩に連れてってあげています。皆さんケルベロスがかわいくって。もう、いっときでも離したくないって様子です」
そうか。流石は地獄の番犬。おばけ軍団の心を掴んだようだ。
「飼い主はまだしばらく手が離せそうにないから、エサもあげてくれると助かると思うよ」
「そうなんですか。伝えときます」
他に二、三言葉を交わしてから食堂を後にした。あんまり遅いとネズミ君がぐずる。
「遅えよ。どこで油売ってたんだよ。ハッ、ハッ、ハーックショイ!う〜、誰か俺のこと噂してただろ」
「一過性の鼻炎だよ」
部屋に戻ると、早速いつものせっかち病に迎えられた。どんなに早く戻っても遅いと言われただろうから、もっとゆっくりしていけばよかった。
「リーチですにゃん!吾輩のリーチですにゃん!早く牌を捨てるですにゃん!」
「ちょっと待ってろ、なんか食ってからだ」
「ふぅ、マシュマロがないと頭がうまく回らないな」
「僕も昆布飴を。おや酢昆布もありますね。流石は勇者さん、気が利いておられる」
相変わらず無限ドンジャラは継続中であった。
「あ、俺もリーチな」
「僕もリーチ」
「僕もです」
結局、先に上がったのは一番後にリーチをかけた犬神氏であった。
「ああ〜、今回ばかりは行けると思ったにゃんけど、皆さん手強い方ばかりにゃん」
「僕も今回ばかりは負けられると思って期待したんですが、トホホな結果となりました」
「でも、諦めませんにゃん。諦めません勝つまではにゃん。またもう一回にゃん!」
このドンジャラというゲーム、僕は説明書を片手に後ろから見ていたのだが、どうやら勝つためには実力だけではなく運も必要なようである。だが、この運が筋肉猫はからきしのようで、悉く必要な牌を相手に取られていた。逆に他の3人は、本気でやっていたのは最初だけで、後は僕から見ても手を抜いているのがわかったが、悉くツイていた。逆に不運だったと言うべきか。それ故にゲームは延々と繰り返されたのである。
「な、なあ勇者。そろそろ覚えたろ。俺、妹の様子見てくるわ」
「う、うん」
気が付けば、そろそろ夕暮れどきである。アホー、アホーというカラスの鳴き声が耳に染みる。
「ハァ、妙子さん。あなたと一緒に出かけたかった…」
天を仰ぐ犬神氏。ケルベロスのことは心配じゃないのだろうか。やっぱりナンパ用に飼っているだけか?
それはそうと、僕もドンジャラをやってみたくなっていた。平均的日本人が経験するであろう、平均的幸福というものにまるで無縁の人生を送ってきた僕は、これが平均的家庭に当たり前に存在している平均的娯楽というものかと、彼らのゲームを平均的に見守っていたのだ。
で、それから数時間後。
「もう一回!もう一回!」
とっくに日は落ち、良い子はもう寝る時間になっていた。床には昼間僕が買ってきたジュースやお菓子の残骸に加えて、夕食にネズミ君が持ってきてくれたお弁当やお茶のペットボトルが散乱していた。
「も、もう付き合いきれません。無念」
最後まで意識を保っていた犬神氏も、とうとう朽ち果てた。熱高君はとうの昔に夢の国へ旅立ち、ネズミ君はどこかに行方をくらませていた。
「もう一回!もう一回!」
「勇者さん、興が乗ってきましたにゃん。いいですにゃん、その調子ですにゃん。今夜は朝まで逝っちゃいますにゃん。さあ、もう一回やりますにゃん」
僕が入ってから、筋肉猫にも勝ち星がつくようになった。でも、もう一回の声は相変わらず僕の耳に届いていた。はて、僕の口から音が出ているように聞こえるのだが、これは気のせいか。
いやしかし、ドンジャラが2人でもできるゲームでよかったなぁ…。
翌日はザビエル暦五月第二週七日目の朝、僕に朦朧とした意識が戻ってきたころ、猫はまだドンジャラと向かいあっていた。しばらくジャラジャラという音が鳴っていたが、やがて窓から太陽の光が差し込むにつれて、音は聞こえなくなった。
「ついにやったにゃん。やりましたにゃん。夜更かしして徹夜ドンジャラ!吾輩はやってやりましたにゃん!」
僕はうーんと身を起こした。熱高君と犬神氏の脱け殻は、まだその辺に転がっていた。
「あ〜、筋肉に悪いこといっぱいしたにゃん。でもなんだかとってもいい気持ちですにゃん。罪悪感でいっぱいなのに、どうしてこんなに清々しいんですにゃん?」
清々しい罪悪感か。教科書では学ばない言葉だが、人類はまだ感情の宇宙を全て探索しきったわけではない。きっと広大無辺なそのどこかで、発見されるのを今か今かと待ち構えていたのだろう。第一発見者が筋肉肥大の猫だったとは、思ってもみなかっただろうけど。
筋肉猫は窓から差し込む太陽の光に目を細めた。その顔は憑き物が落ちたように、さっぱりとした表情だった。
「あ〜、お日様が眩しいにゃん。今までの猫生が走馬灯のように思い出されるにゃん。幸せだった横浜時代。ボディビルに目覚めてからの怒涛の日々。樹海を彷徨ったあの夜のこと」
ヨロヨロと立ち上がると、猫は僕のベッドに横になった。キラキラと太陽光線が、オレンジの毛並みを金色に浮かび上がらせた。
「吾輩は疲れたにゃん。もう眠るにゃん」
それはまるでルーベンスの絵の前で昇天した、かわいそうなフランダースの少年を見るかのようだった。
そうだよな。ずっとやりたかったんだよな、徹夜ドンジャラ。
金色の光の中を天使たちが降りてきた。猫の背中に羽が生えた天使だった。どういうわけか、それはゲンちゃんに似ていた。
僕は筋肉猫の手を取り、胸の上で組み合わせた。何かないかと見回したら、ドンジャラの遊び方を書いた一枚の紙が落ちていた。僕はそれを拾うと、広げて猫の顔にそっと被せた。
サヨナラ、筋肉猫。筋肉の殉教者。今度生まれてくるときは、ボディビルのない世界に生まれてくるんだよ。
「フガッ!」
ドンジャラの説明書は、鼻息で吹き飛ばされてヒラヒラと舞った。
なんだ。本当にただ眠っただけか。
気がつけば、ゲンちゃん似の天使も消えていた。僕も寝よう。寝不足は幻覚を引き起こす。




