チャプター4‐4
チャプター4‐4
【朝:病院前】
「あっつ…………」
凶暴さを増し始めた七月の昼中の日差しから逃れ、街路樹の影に隠れる千鳥は、ノースリーブのワンピースから出た腕を掲げて空を見上げた。木漏れ日が彼女の肩を照らしていた。
千鳥がいるのは、市内の赤十字病院のすぐ側だった。府庁のすぐ隣に建てられ、昼夜を問わず多くの人が訪れる場だった。
「遅くなったな」
「おー、来た来た…………って、どしたのその顔」
例のキャリーケースを携えて現れた槇原の顔は、右頬が膨れ上がり、額は皮がめくれて赤くなっていた。
「木下刑事にぶん殴られた。あと、親父に玄関で土下座させられて、そん時にデコ打った。あの電脳妖精のおかげで、いろいろとまずいことまでバレたんだ」
「例えば?」
「木下刑事の話を盗聴したりとか」
「普通に犯罪じゃん」
「うん」
「お父さんと仲いいって聞いてるけど」
「親父とは大学で同期だったらしい。だからその縁で、時々捜査依頼を持って来てたんだ。人間の手に負えないドゥーム絡みのをな」
木陰が槇原の目元を隠した。水気を含んだ初夏の風が彼の前髪を揺らす。
「でも木下さん、昨日はマジで怒ってた。アホな息子にこんな仕打をされるぐらいなら、もう依頼も持ち込まないとも言ってた。俺が二人の信頼関係を壊しちまったんだ」
淡々と語るが、やはりそのことは彼にとってもいくらか堪えているようだった。
「お前は無意識に人の事を見下してるって言われちまったよ。自分は頭が回るから、何をやっても許されると勘違いしてるって」
「まぁ槇原、結構ナチュラルに上から目線だよね」
「…………」
「初対面の人でも遠慮なく顎で使うし」
「…………」
「アホは黙って俺の言うことを聞いとけ、みたいな。時々すごい嫌な感じ。あ、もっと優しい言葉かけて欲しかった?」
槇原と千鳥は病院内に入る。
「いやいいよ…………改善します」
「ま、頭いいのは事実なんだけどねー」
それで助かってる面もあるし、と付け足して、千鳥は受付へ向かった。
「すいませーん、内科の微紗先生へのインタビューで、二時にアポ取ってた、半月高校の上羽という者なんですけどー」
【午前:病院内】
ハルの思い出しうる、地上での最後の記憶というのが、この病院の三階の診察室だった。
携帯のカメラを辺りに向ける槇原に、案内役の医者が声をかける。
「ごめん、撮影はNGなんだ。病気のこと知られたくない患者さんもいるから」
「あ、サーセン」
二人を案内するモップのような髪型の医者は、千鳥の母親の知り合いだった。
彼は素直に携帯を下ろした。なにもカメラはそれだけではなかった。彼の手首に巻かれた特別な腕時計にもついていた。
彼らがいるのは、三階の一般病棟の通路だった。どこからともなく消毒液と、それが押し隠す体臭や種々の体液の臭いだった。
「すいません、忙しいのに」
「いいよ、学校の課題なんでしょ。それに上羽さんの娘ならなおさらだよ。私もユタニの研究所にいた頃はお世話になったから。お母さん、元気?」
「おかげさまで。あんま家帰ってこないんで、顔色とかは知らないですけど」
「あはは。まぁ、仕事好きな人だもんね。さて、ここが詰所でーす」
二人が案内されたのは、医者や看護師たちが詰所として利用するカウンターだった。
「要請を受けると、ここから看護師さんたちが出動します」
「へー。データの管理とかどうしてるんですか?」
「普通にそれぞれのデスクトップパソコンでだよ」
ここで一人の看護婦がナースコールを受けて立ち上がり、詰所の扉を開けて出て行った。千鳥が空席のパソコンにすいと近寄り、槇原がそれを隠すようにして医者と彼女の間に立った。千鳥のシャツのボタンを外してゼノ・ガールの腕が伸びる。槇原は後ろ手で一つのUSBメモリを手渡した。千鳥の手を介して、紫色の腕はそれを素早くパソコンに差し込む。
コンピューターは、最初は突然接続されたデバイスから強制的に送られてくる、正体不明のデータに対し、何度も警告のメッセージを表示した。
「今出てったのが、古株の阿須里さんていう人で…………」
千鳥の背後に回ろうとする医者を槇原は引きとどめた。
「微紗先生は、どういう経緯で外科医になられたんですか? 俺、医者って結構憧れてて」
「え? ああ、高校から医学部目指して…………」
看護師のパソコンは、槇原が話を引き延ばしている内についに観念したのか、警告のウインドウの最後の一つを浮かべたきり、後は何も言わなくなってしまった。後に残るのは大量の『WARNING!』と、その一番上にふんぞり返る『DOWNLOAD COMPLETE』の文字だった。ゼノ・ガールの腕はそれを一つずつ丁寧に閉じていくと、最後にUSBメモリを抜き取って槇原に返した。
「他に何か見たいとこある? 多少は見せてあげられるよ」
千鳥が振りかえった。
「あー私、将来医療機器を扱う仕事に就きたいので、機械類がある所見てみたいです」
「オッケー。じゃあ、四階のちょっと専門的な診察室も見てみようか」
人当たりのいい医師は、二人に病院の施設や装備を丁寧に紹介して回った。
(メカに意識が宿ったんなら、どこかで脳とメカとが接続される機会があったはずだ。上手いぞ上羽…………あ、もしかしてこの言い方か?)
今しがたの言い方こそが、千鳥の言う『偉そうな態度』に当てはまるのではないかと思って、槇原は一人でハッとして反省するのだった。
彼は去り際、小型の分身を生み出して診察室のベッドの下に放り込んだ。グラボイドと同じ黄色の迷彩柄の小さな生物は、素早く壁を昇って行った。
【正午:病院近くの喫茶店】
千鳥と槇原は、近くの喫茶店の奥まった席で、ノートパソコンを覗き込んでいた。画面には槇原が残してきた分身の送る映像が映っている。
「地下室の入り口を捜索中なんだが、そこに運ばれるまでを少しでも覚えてねぇか?」
傍らの携帯の画面から立ち上がるホログラムは、それでも首を横に振った。
『ごめん、それは全然』
「メールもチェックしてみて。タグルートの人間とのやり取りから、何か分かるかも」
『そうね。ああそうそう、データ破りの方も終わったわよ。じきに二人が到着すると思うわ。ただ…………』
丁度その時喫茶店のドアベルが鳴り、関とキリタニが入って来た。涼しい顔をしている関とは対照的に、キリタニの顔は青ざめ、ぐったりと関に肩を支えられていた。
「おい、色々収穫だぞ」
「そうかい。ところでそいつは一体どうしたんだ?」
「トラウマ。パソコンからドゥームが出てきたのを見てると、色々思い出しちゃったらしい」
「…………」
血の気の失せたキリタニに千鳥がグラスを差し出す。
「はい水」
『もしかして、嫌なことさせちゃった? だったらごめん…………』
ハルに言葉を返す気力もなく、少年はぐったりと椅子の背もたれに寄りかかった。
「お疲れ様。後は僕の口から説明するよ」
関はとつとつと、彼らが得た新たな情報の事を話し始めた。
【午後:タグルート社本社ビル七階会議室】
今は身元不明の惨殺死体として処理された安田泉の、その最期の足取りとなったタグルート社の会議室は、前回のそれとは違う様相を呈していた。
泉が訪ねた時、部屋は一本通路を囲む水槽に、硫黄臭の漂う黒色の液体が満たされていたが、現在それは固形化してごつごつした地面となり、通路を橋とする形で、長く底の見えない地割れを形作っていた。
それは丁度、この部屋で泉が話した『海溝』の巨大なジオラマになっていた。
橋の中央では吉田千怒が、チタンの視線を計り知れない深さのクレバスの中に注いでいた。彼は珍しく、和服ではなくシャツの上に白衣を羽織っていた。
「失礼します」
部屋に入って来たのは専務の神武だった。
「先ほど確認したところ、こちらが雇った探偵業の人間からのデータの内、例のグループの構成員に関する情報が削除されていました。但し、サーバーに外部から侵入した形跡はありません。社内で交付したノートパソコンは全て提出させましたが、そちらは現在調査中です」
「そうか」
千怒は顔を上げもせずに答えた。
「ビュイックの製造に関しては、現在別拠点を検討中です。出来る限りご都合に敵う場所をご用意いたしますので、しばしお待ちください」
「結構」
「つきましては、今月中に…………」
神武がそこまで言いかけたのを、千怒は手を挙げて遮った。
「静かに…………見えるか?」
彼は、室内に現れた広大な黒のクレバスの裂け目を指した。そこではジオラマの原料となるのと同じ黒い泥で出来た、タコの胴体にカニの脚を持つ怪物が、裂け目の壁を這いあがって地上に出て来るところだった。このジオラマは、それのオリジナルの状況を実況する機能も持っているようだった。
「あちら側からの通行が出来ている。やはりほころびができたのだ。今なら『キュア』によってそれをこじ開けるのも不可能ではない」
「お言葉ですが、いささか時期尚早ではないでしょうか。あれを動作させるのに必要な特殊霊体静熱は…………『恐怖エネルギー』は、現時点では七十パーセントほどにとどまっています。また制御装置も、他のビュイックに搭載されているものとは違い、動物のものを使用しているわけではありません。術後の適応も不十分だと思われます」
「…………」
千怒は黙ったままだったが、それは神武の話を聞いているというより、そもそも聞く気がないことを示すかのような姿勢だった。
「さらには、既存のエネルギーを恐怖エネルギーに変換するシステムも研究中であって、そちらを待つのも…………」
機械のような口調で説明をしていた神武が、僅かに瞬きをした次の瞬間には、千怒のチタンの義眼が彼のすぐ目の前にあった。
「あなたの」
千怒の吐息が神武の鼻先にかかった。突然のことに神武の瞳孔が縮まったが、彼はすぐに落ち着きを取り戻した。これぐらいの原理不明の瞬間移動は、千怒にとっては造作もないことなのを、神武は知っていた。
「あなたの計画は非常に綿密、かつ長い目をもって立てられている。警察の目を欺き、政府の眼をかいくぐり、外部に漏れる情報を最小限にまで抑えている。情報と同時に犠牲もな。全てはゆっくりと、しかし着実に進行する。神経質さから来る病的なまでの秘密主義も、かえって上手く機能していたと言える」
千怒が手をかざすと、それに応えるようにしてクレバスを形成する泥がうごめく。
「しかしただ一つの欠点は、イレギュラーに弱いということだ」
彼がさっと腕を上げると、泥は岸の一方にウォッチャーたちの像を形作った。
グリード、グラボイド、ゼノ・ガール、ミスト・ポッドの姿似だった。
「イレギュラーと言うよりも、自身の想像の及ばない領域と言った方が正確だろう。あなたの想定に運命の二文字はない。大事を成し遂げようとすると、必ず向かい風が吹く。あなたが想像していたのは、何も知らないただの民間人か、あるいは多少の勘と運を持ち合わせた人間がせいぜいだろう。丁度何年か前、2005レポートを盗み見た者たちのような」
千怒は両足を揃えて、クレバスの真上を浮遊していた。
「だからこそあなたの計画は、政府や警察は騙しおおせても、彼らのような運命に選ばれた者たちを出し抜くことは出来ないのだ。運命から思いもしない力を授かった彼らを。私があなたの冗長な計画に付き合ってきたのは、あなたの頭脳がどこまでこの向かい風に対抗できるのか興味があったからだ。しかしもうこれ以上それを続けることは出来ない。さらには今そこに、我々の預かり知らぬ、新たな要素が加えられようとしている…………」
追って立ち上がったのは、加藤来世の姿だった。神武の眼が見開かれる。
「彼女が? しかし彼女は…………」
ウォッチャーたちの対岸に、一体のドゥームの像が立ち上がる。『クローバー』と名付けられた巨大なドゥームは顔こそ自由の女神をかたどったものだったが…………。
「エネルギー目標値の七十パーセントは貯まったと言ったな。予定を変更し、あれは『キュア』ではなく『クローバー』にまわしなさい。ハンマーダウン・プロトコルを発動する。実行は十日後、海溝のほころびがもっとも大きくなった時だ」
「お待ちください、私の計算では…………」
「聞きなさい」
千怒は神武の額に人差し指を突き立てた。細い指には、逆らい難い奇妙な力があった。
「恐怖とは新鮮な感情なのだ。劣化しない上澄みだけを用いていたら、あなたの計画では目標達成までにおよそ三十年はかかる。それを打開するためにあなたは恐怖エネルギーから電力エネルギーへの変換を熱心に研究しているが、それとて完成の目途は立ってはいないるだろうか? いや、いない。私があなたのビュイック計画に技術と理論、そして黒い泥を貸し与えたのは、このような運命が集う場で、あなたのような人間がどう立ち振る舞うかに興味があったからだ」
千怒の言う泥とは、今この部屋に満ちる黒々とした液体が凝固したもの、そして、ビュイックから漏れ出て、『キャリー』の下半身を形作った黒い泥と同じものだった。それらは同時に、千怒の分身でもあった。
「全国に置き物のようにビュイックを配置するにせよ、それを阻止する者たちまで現れ始めてしまった。恐怖エネルギーを大量に回収するにはもはや『ハンマーダウン』より他ない」
異を唱えようと神武が口を開きかけたが、千怒の指先が唇にまで降りて来て、彼の口は縫い付けられたかのように開かなくなってしまった。
「『鉄槌』は必ずや下る」
すれ違いざまに彼は神武に聞く。
「先ほどの話だが、肝心なのはあなたがその素性来歴、住所を覚えているかだ」
「…………一言一句違わず記憶しています」
掠れ声で神武は言う。
「当面は泳がせておけ。しばらくして油断しきった所を狙いなさい」
そう言い残して、千怒は空中へ踏み出したかと思うと、ジオラマの深い溝の中へと下っていった。
取り残されたタグルート社の専務は、いつまでもそこに立ちすくんでいた。人面怪獣クローバーの、優し気な女神の微笑だけが彼を見下ろしていた。
『Monsters(邦題『モンスターズ/地球外生命体』)』 2010年12月3日イギリス公開、上映時間94分
監督:ギャレス・エドワーズ
脚本:ギャレス・エドワーズ
制作:アラン・ニブロ
制作総指揮:ナイジェル・ウィリアムズ、ニック・ラヴ、ルパート・プレストン
出演者:スクート・マクネイリー、ホイットニー・エイブル
あらすじ:地球外生命体のサンプルを採取したNASAの探査機が、大気圏突入時にメキシコ上空で大破する。その直後から謎の生物が増殖し、メキシコの半分が危険地帯として隔離される。それから6年後、メキシコでスクープを狙うカメラマンのアンドリュー・コールダーは、現地でケガをした新聞社社長令嬢サマンサ・ワインデンをアメリカとの国境まで送り届けろと、上司から命じられる。…………(※22)
【深夜:タグルート社地下】
ビニールカーテンに隔てられた部屋で来世は、タグルート社の実験の被験者を抑え込んでいた。彼女の腕は直線的な青白い光を照射していた。
「う、痛い、痛い痛い、痛いいいぃっ!!」
「この、動くな…………!」
今回の実験でストレッチャーの上の被験者の体には、前回のピンク色の軟体に変化する症状とは反対に、全身の血液が砂状に固まってしまうという事態が起こっていた。浮かび上がる静脈は、ワイヤーのような硬さをもって凝固していた。
(なんなのこの人たち、血管ガチガチなのに、何で生きてんの?)
これは彼女の知る由もないことだが、それでも生きているのは、凝固が血管の中央までには至らず、狭められた血管を通じてどうにか脳にまで動脈血が届けられていたからだった。勿論、運悪く脳の毛細血管にも凝固が発生した者たちは別としてだが。
来世が腕から放たれる光をあてがうと、それは少しだけ軟化した。彼女は同様の患者たち一人一人に対して慎重に、硬化した血液を手足の末端から溶かしてきたのだった。
首筋や肩など、頭に近い部位から溶かした人間は、却って助かる見込みが低くなることを、彼女は最初の三人で学んでいた。
「ぐああぁぁあっ!」
担架の上の男が暴れた拍子に、来世の手が男の首筋に触れた。首の血管壁にこびりつく血の塊は剥離したが、同時にそれは彼の脳内の細い毛細血管に向かってまっすぐ突き進んでいった。
「う、が…………」
「あ、ちょ、待って待って…………!」
彼は脳梗塞を発症し、一言二言呟いたかと思うと、彼女の腕の中でたちまち物言わぬ人となってしまった。一瞬の出来事で、来世には為す術もなかった。訳も分からぬ内にこの世から去ってしまった男を前に、ただ言いようのない後味の悪さだけが、彼女の胸に残った。
叔父からこの仕事を引き受けて三か月目の今日、目を見開いて絶命した被験者を見下ろしながら、こんな時に彼女の胸に浮かぶのはある一人の人物だった。
来世が地方から府へ旅立つ前、片田舎の小さな高校の卒業式の日に告白してきた男。名前は憶えていない。普通の、しかし至って気立ての良かった男。優しさ以外に取柄のない、田舎に行けばどこにでもいる普通の農家の息子。自分の住んでいた代わり映えのしない地方の素朴さを、身をもって表していたようなつまらない男。自分のような才能溢れる人間には似合わないと思い、穏やかな口調で丁寧に、しかしきっぱりと告白を断られた男。振られても来世の旅立ちの日には顔を見せに来た、普通に気立てのいい男。
彼女は今のような時、つまり自分の異常な力を異常な環境で働かせた後などには、いつも『普通』の彼の事を考えた。
もしも自分が出立を思いとどまり、あの『普通』の男子の告白を受け入れて、親の忠言にも素直に従って、『普通』に生きて『普通』に地元に就職して、『普通』に暮らしていったとしたら、どうだっただろう。刺激はなくとも多少は幸せだっただろうか。諦めた夢に対して、
「もしもあの時…………」
と呟きながら老いてゆくような暮らしに満足しただろうか。
少なくとも、ミュージシャンを目指して都に上ったはずなのに、生活費を稼ぐバイトに追われ、それでも足りずこんな非現実的な仕事で食いつないでいくのに精一杯という事態に陥らなかったのは間違いない。人前でギターを演奏したのは何日前のことだろうか?
来世はこの仕事の事がどうしても好きになれなかった。腕の力は高校生の時に初めて目覚めてからずっと原理も分からないままだし、叔父の神武は何を考えているのか分からず、いつも気味が悪かった。
『怪我を癒すだけならまだいい。もしもこれの本質が、自身の寿命を他人に分け与える類のものだったとしたら?』
そんな考えが頭をよぎるたび、来世はいつもぞっとした。加藤来世、十八歳。夢を追うも生活苦に追われ、ついにはその力によって花のうちに死す。
「…………終わったっスよ」
来世は振り返って呼びかけた。
「あのー?」
来世は、叔父の代わりに自分に付き添っていた人物に対して声を張り上げるが(叔父は急用で外していた)、返事は帰ってこなかった。
この時来世のお守をした人物は、例のバイオハザードのマークが書かれた扉の向こうで耳にイヤホンをさし、クイーンの『愛に全てを』を聞いていた。フレディ・マーキュリーとバックコーラスの盛大な歌声は、来世の呼び声をかき消したのだった。
ビニールカーテンに遮られた施術室には助かった者だけが並び、そうではない人間たちは(つまり、血管という血管に赤いきめ細かな砂を詰め込まれ、ついにそれが元に戻ることのなかった人間たちは)、奥の小部屋の方に移されていた。
足首に黒色のタグをつけて、最後の患者の遺体を小部屋に移し終えた来世は、白いエプロンを脱いだ。入り口の脇の控室に置いた私物を取りに行こうとしてドアノブに手を掛けると、鏡のような金属扉に、自分以外の影を見た。
はっとして振り返ると、それは患者の内の一人だった。来世の腕から発せられる治癒の光は、彼の血液を正常なものに戻したはずだった。
「痛いんだ…………痛みが戻って来た。アンタのおかげでよくなってたけど…………また…………」
頬を掠めて扉に叩きつけられた手の甲から、皮膚を突き破って赤い結晶が伸び始めた。
「頼む、もう一回あれを…………本当に痛いんだよ…………」
がたがたという音に首を返すと、今まで治ったと思わしき人間たちはみな起き上がり、彼と同じように体のあちこちから(より正確に言うと、血管と皮膚の間が薄い場所、例えば額や手足の甲等から)血の色をした結晶を伸ばしていた。
「痛ぇよ…………血が針みたいに…………」
「鼻から粉ばっかり出て…………目が痛い」
彼らは皆一様に救いを求めて来世に手を伸ばしたが、そこから生える赤い針の鋭さは、来世がそれに応えられるほど生易しいものではなかった。真っ赤なハリネズミたちは、呻きながらも彼女に接近する。
咄嗟に側の一人を突き飛ばして扉を必死に叩いたが、外の男の耳には相変わらずクイーンが流れ続けていた。
来世が飛びのくと、赤い針まみれの人間たちも緩慢な動きでそれを追う。
「さっきの光を…………もう一回だけ…………」
「助けて、お願い…………」
ぞろぞろと迫る彼らを前にして、来世は背を向けて逃げ出した。彼女はこの治療部屋の奥に、入り口とはまた違った広大な空間が存在することを知っていた。
「頼む、頼むよ…………痛いんだよぉ」
聞こえないふりをして来世は治療室のもう一方の扉まで駆け寄り、力一杯にそれをスライドして開けた。幸いなことにその扉は、閉まると同時の鍵がかかる仕組みの様だった。彼女はドアにもたれかかって息をついた。
扉の向こう側から針が金属の表面をこする音が伝わって来た。
「痛ぇ、痛ぇよ…………」
細い覗き窓の向こうで棘の生えた人間たちが触れ合って、キシキシとガラスを爪で引っ掻いた時の音がした。
「お願い、見捨てないで…………」
来世は足がすくんで動けなかった。もしも彼女が心変わりをして施術室の人々を助けようと思ったとしても、どのみち扉は電子制御だったし、こじ開ける隙間も手を掛けるドアノブもなかったから、同じことだったろう。
次第に声がか細くなる。来世はいつか溺れ死ぬと分かっている、川に落ちた子犬を見ている時のような心持でそれを聞いていた。覗き窓は折り重なる赤い結晶で塞がっていた。
声は次第に小さくなってついには止み、静寂が訪れた。扉に折り重なる結晶たちはピクリとも動かなくなっていた。扉も相変わらず開きそうになかった。
なんだかひどく疲れた心地だった。彼女は自分の古アパートの汗の染み込んだ布団が無性に懐かしかった。しかしそこへの道は赤色の宝石で塞がれている。
(…………帰れない)
横を剥けば『EXIT』の文字の下に薄汚れたドアがあった。隙間から緑色の光が漏れ出ている。その光は蠱惑的な雰囲気で彼女を誘った。来世は光そのものが喋っている気さえした。
(おいでよこちらに、おいでよこちらに。『コリンウッド』はいいところ。よくなったら帰れるさ。よくなったら帰れる。よくなったら、よくなったら…………)
外の男はようやく曲が終わり、部屋の内部で処置を行っている上司の姪からの呼びかけがないことに気が付いた。しかしその時には当の来世はもう、緑色の廊下のはるか向こうまで入り込んでしまっていた。
ライムグリーンの薄暗い光の満ちる施設の廊下は彼女を歓迎した。
『The Andromeda Strain(邦題『アンドロメダ…』)』 1971年3月12日アメリカ公開、上映時間131分
監督:ロバート・ワイズ
脚本:ネルソン・ギディング
原作:マイケル・クラントン
『アンドロメダ病原体』
制作:ロバート・ワイズ
出演者:アーサー・ヒル
あらすじ:ニューメキシコの小さな村に衛星が落下した。軍はそれを回収に向かったが、その村の住民たちは皆謎の死を遂げており、さらに軍の兵士たちも突然死んでしまう。
政府は直ちに非常体制をとり、ワールドファイア計画を発動させ、ストーン、ダットン、ホール、レヴィットの4人の科学者を動員して事態の収集に当たる。
現地に飛んだストーンとホールは、住民たちの急死は、衛星の中の微生物が住民たちを襲ったためと断定したが、死者の血液を粉末状にするほど凝固させてしまう微生物の正体は見当もつかなかった。さらに不思議なことに、住民たちの中で地酒の好きな老人ジャクソンと、乳飲み児の2人だけが生存していた。
彼らは衛星と2人を研究所に収容し、“アンドロメダ・ストレイン”と名付けた微生物の正体と鎮圧方法を必死に研究するが、やがてその微生物で研究室も“汚染”されたことから、思わぬ事態が起きる…。…………(※23)




