第十章 第七節【叡智の海へ】
その日の夕刻、ロングソファに腰かけたサイカは、隣に座るターナの胸に顔を埋め、小さな子どものように泣きじゃくっていた。ありとあらゆる感情が奔流となり、その内側を駆け抜ける。
ターナの部屋に響く涙声は、悲しみや嘆きによるものではない。サイカの人生をがんじがらめに縛りつけてきた囚われからの解放。そして、果てしない『叡智の海』がもたらした癒やし。その兆しにすら触れたことのなかった彼女は、ただ驚き、圧倒された。感謝、愛、慈しみ、寛容——彼女の苦難の人生では縁遠かったものに包まれ、生まれて初めて「満たされた」。
いくぶんサイカが落ち着いたところで、一旦ターナは席を外し、待機しているバイロンの部屋へ向かった。
「三時間か。少し待ちくたびれたぞ」と軽口を叩きながらも、宮廷医は胸を撫で下ろした。
「意外と長くなっちゃったわね。体感では十五分くらいだったんだけど」
「久しぶりだったんだろ?」
「七年ぶりかな。でも、何も変わっていなかった。『叡智の海』はね、いちいち『干渉』で指図するくせに、私たちの存在そのものは絶対に拒まないの」とターナは静かに呟く。「サイカは、ありとあらゆる憑き物を削ぎ落とせたんじゃないかしら。ついでに、私も大きく癒やされた」
「彼女は、今まで『叡智の海』の存在に気づいていなかったということか?」
「たぶんね。これから本人に聞いてみようと思う」とターナは左腕だけを広げ、軽く伸びをした。「ところで、彼女の肘のリハビリはこの後?」
「それは、夜でも構わないよ。まだ話したいんだろ? ゆっくりするといい」
「ありがとう。心配かけてごめんね」
「何を今さら。問題ない」
自室に戻ったターナは、備え付けのレモン水をコップに注いだ。サイカはその半分ほどを一気に飲み干す。ターナはその隣にそっと腰を下ろした。
「サイカ。私は、あなたという人格を十分に受け入れることができた。筆舌に尽くしがたい苦しみを味わってきたのね。それでもあなたは、現状を打開しようと足掻き続けた。『同化』も、その一つだったのでしょう」とターナは穏やかに語りかける。「一つ一つの判断が正しかったかどうかは、あまり問題ではないわ。誰だって、間違いはある。ただ、あなたが一貫してギルザの民を守ろうとしてきたことには、とても共感したの。そこについては、私なりの敬意を払います」
「その……ターナ……様」
「『ターナ』でいいわよ。これからは、崩して喋ってくれて構わないわ」
「あ、でも……」
「やりにくいかしら? じゃあ、例えば今後、王国がギルザを支援する条件が、あなたの『タメ口』だとしたら、どうする?」
王女はにこやかに微笑んだ。
「わ、わかった。ターナ……」とサイカは俯いた。「さっきの……『叡智の海』っていうの? アタシは、初めてだった」
「そうだったのね」と応ずる。「でも、私にとっては、むしろそれが不思議なの。『叡智の海』を経由しなければ、他の『同化者』に『接触』できないと、私は認識している。サイカは、どうやって父や私に『接触』したの?」
「部屋を暗くして、気持ちを落ち着けていると、何となく『同化者』の存在を感じ取れることに気づいた。最初は、ただ見ているだけだった。でも、繰り返すうちに、近づいて触れられるようになった。国王陛下は比較的簡単に存在を把握できたけど、ターナを探し出すのは、とても難しかった」
「なるほど……。私が捕まったのは、宮廷での会談の一週間前ね。あのときに限って、本当に油断していたから……」
「うん。それ以来、見つけ出すこと自体は簡単になった。でも、『接触』はできなかった」
「そうよね。経路を塞いでいたもの。私だって、とても怖かったのよ」
サイカは他の『同化者』を見つけることに焦点を当てていた。一方、ターナは『干渉』の源を追い続けていた。その違いが、二人から見える景色の差につながったのだろう。この点については、セオドアの意見も聞いてみたいとターナは思いを巡らせた。
そして、もう一つの疑問を投げかける。
「オルティス博士は、クリアターコイズの精神への影響を否定してるわよね。その指導を受けているあなたが、遠隔で『同化者』の意識を探ろうと思ったのは、なぜ?」
「それは……」とサイカは言葉を濁したが、やがて意を決したように続ける。「博士の助手が、こっそり教えてくれたんだ。キース・ウィルソンという男だ」
「そう……なんだ」
「彼は、意識への作用を信じていた。決してガスパルの前では持論を語らなかったけど、『同化者』同士なら、意識の『接触』ができるかもしれないって、アタシに話してくれた。それがきっかけなんだ」
ターナは左手を口元に当て、考え込んだ。
ガスパルとセオドアは学説を巡って対立している。しかし、その弟子はむしろセオドアに近い考えを持っているのかもしれない。
「キース・ウィルソン……」
ターナはその名前を記憶に刻んだ。
「ガスパルの言うことは極端だと、アタシは思ってる。確かに、『発動』に伴う現象を彼は正確に把握している。でも、それはあくまで精神作用を守る目的だというのが、アタシの正直な感覚なんだ」とサイカは少し言いづらそうに続ける。「一度、ガスパルにその話をしたことがあるけど、激怒して一か月ほど連絡が途絶えたんだ。キースが宥めて、ようやく指導を再開したけど、それ以来、精神作用については触れないことにした。これ以上揉めるのはごめんだったから……」
「今、宮廷で治療していることは、オルティス博士に伝わっているの?」
「ファビオ兄ちゃんが、うまく誤魔化しているはず。治療が終わってコロキスに戻ったら、また訓練を再開することになると思う。国家の承認とかには、学者は興味がないからね」
ターナは、目の前の少女が年齢以上にしっかりしているという印象を抱いた。彼女なりに思い悩み、それでも今の立場を受け入れているのだろう。
「私たちは、セオドア・ゴルソン博士と交流しているの。長く中断していた研究も、ようやく再開し始めているし。サイカにも、彼と話す機会を作りましょうか」
そして、ターナは茶目っ気を含ませ、声を潜める。
「もちろん、オルティス博士には内緒よ」
「ふふっ」とサイカの表情が柔らかく緩んだ。
「可愛い笑顔。それが、あなたの本当の姿なのね」
サイカはきょとんとしていたが、その意味が伝わると頬を赤らめた。
「もう、無理をしなくていいのよ。一人で何もかも背負う必要はないわ。私はできる限り、あなたの力になりたいと思っている。純粋にギルザの民を守りたいというあなたの志は、とても尊いものだから。何かあったら、いつでも声をかけてね」
サイカの表情に、安堵の色が広がった。重い責務と罪悪感に押し潰されそうになっていた心が、ずいぶん軽くなった気がする。何年も張り詰めていた糸がようやく緩み、自然と涙が浮かんだ。
ターナは左手で、サイカをゆっくりと抱き寄せた。互いの左頬が触れ合う。黒十字解放戦線の第一隊隊長は、抵抗することなくその慈しみを受け入れた。
「でも、不思議ね。あれほど憎しみ合っていたのに、こんな現実が訪れるなんて。斬り合っていたとき、『あなたを抱き締めるはずない』って、私は言ったはずなんだけど」とターナが戯けてみせる。
「つまり、王族なのに嘘をついたってこと?」と笑顔を取り戻したサイカが一矢報いようと返す。
「嘘なんかついていないわ」とターナは口角を上げる。「ただ、気まぐれなだけ。古今東西、専制君主なんて、そんなものよ」




