第十章 第三節【信頼の灯火】
ジョシュアとギルが宮廷を後にすると、セオドアもゆっくりと立ち上がった。すっかり遅くなったので、研究室に泊まることにすると笑う。先日、寝袋を持ち込んだとのことだ。
その背中に、ターナが声をかけた。
「セオドア。あなたにも、嫌な思いをさせてしまったわね」とその声には苦しさが滲んでいた。「何の説明もなく、宮廷への立ち入りを禁じてしまった。あなたを巻き込みたくなかったの。誰も頼れないと、思い込んでしまったから……」
「今回、王室が戦う理由は、確かにありませんでした」とセオドアはターナと目を合わせず、静かに答える。「もしかしたら、理由がないと知っていたとしても——誰にも相談せずに、事態の解決を図ろうとしたのではないですか?」
「……」
ターナは返答に詰まった。
そうかもしれない。黒十字解放戦線は東大陸の安定を揺るがす存在であり、サイカの脅威が完全に排除できなければ、判断はきっと変わらなかっただろう。民間人を巻き込むわけにもいかない。
「それは、統治者としての気概です。私ごときが咎めることはできません。ジョシュアとは違う意見かもしれませんが」とセオドアは穏やかに続ける。「ただ、ターナ様が思う以上に、王国の民はしっかりしております。自分で考え、良い選択をします。心配はいりませんよ」
ターナは、はっとしたように目を見開いた。
「私は……民を信頼していなかったの? セオドアを、信じていなかった……」
「ターナ様は、誰よりもよくご存じのはずです。王は国を統べる者。しかし、それを支えるのは、ほかでもない国民です。先ほどの船乗りどもも、そして私も、あなたを信頼し、支えたいと願う者なのです」
胸が一杯になった。彼らの真っ直ぐな心意気が、満身創痍の自分を芯から温めてくれるようだった。
「そうね……私の理想とするのは、民が民を信頼する世界。私だって、その一人として民を信じなければ、そんな理念も絵に描いた餅に過ぎないわ」と自らの言葉に力を込める。「セオドアを頼ると決めたばかりだったのに。私も、まだまだだわ」
「本当ですぞ。まあ、かく言うワシも、王室に裏切られたと思い込んで、カルザスに八つ当たりしちまった。そうしたら、奴に大声で諫められましてな。ワシも、まだまだですわ」とわずかに無骨な言葉遣いで戯けた。
「そうだったのね」とターナの口元に小さな笑みが戻る。
「あまり気に病まんでください。おそらく、カルザスは何とも思っておらん。むしろ、戦いを止めて誇りに思っておるはず。奴は、人の役に立つことに飢えております。その気持ちを、どうか汲んでやってくだされ」
バイロンが穏やかに口を挟む。
「今までどおり、溌剌と接すればいいんじゃないか。変に気を遣うと、カルザスは戸惑って、自分を責めかねない。せっかく、ジョシュアと博士が地ならしをしてくれたんだ。甘えていいと思うぞ」
ターナは目を閉じ、老学者と宮廷医の言葉をひとつずつ噛み締める。
これからも、今回の顛末を忘れることはないだろう。心の傷は、時とともに和らぐことはあっても、完全に消え去ることはない。これから先、気を遣い、遣われる場面もあるに違いない。
それでも——だからこそ、自分らしさを取り戻し、誠実に向き合わなくてはならない。そうして初めて、自分を信じてくれる人々の想いに応えられるのだ。
「ありがとう。セオドア、バイロン。心から感謝します」
そう言って、ターナは二人に深々と頭を下げた。
「少し待ってくれる?」
部屋を出ようとする二人をターナは呼び止めた。そして、バイロンへ視線を向ける。
「サイカ・ノヴァク隊長の容体はどう?」
「体力をかなり消耗している。もうしばらく安静が必要だな」
「右腕が完全に治るまで、まだ時間を要するでしょうね。話ができるようになるのは、いつ頃になりそう?」
「三、四日もあれば大丈夫だと思う」
「では、その頃に面談する機会を作ります」とターナはきっぱりと語る。「黒十字の処遇については、丁寧に説明すれば彼女も納得すると思う。そこは心配していないの。ただ、クリアターコイズについて、彼女の理解は十分とは言えない。不安定で、危険な状態にあると思う。だから、じっくり話をしたい」
「それは、『叡智の海』のことですか?」とセオドアは遠慮がちに尋ねた。
ターナはその問いには答えず、二人に向けて提案した。
「この後、もう少しだけお話をする時間をもらえるかしら? サイカと対峙したことで、クリアターコイズについての理解が一段と深まったように思うの。それを、きちんと伝えておきたくて。セオドアの研究に役立てば嬉しいし、今後の石の扱いについても、少しずつ考えをまとめていきたいわ」
部屋の空気に新たな緊張が走る。
「では、紅茶のおかわりをいただきましょうか。夜更かしの心積もりも、よろしくね」
ターナの声には、いつもの華やかさが戻っていた。彼女らしい軽やかなウィットを添えて。




