第十章 第二節【怒りの不敬】
「さすがに、今回ばかりは肝を冷やしたよ。手術は確実に成功したし、術後の経過も良好だったのに、三日間も目を覚まさないんだからな」
白衣を脱いだワイシャツ姿のバイロンは、珍しく饒舌だった。
「本当に、人騒がせな奴じゃ。『同化者』と一戦交えるなど、命知らずにもほどがある。生きておるだけで、よかったと言うしかないわ……」
サスペンダーをいじるセオドアは、呆れた様子で息を吐いた。
「派手な血糊が見えたからさ。この三日間、その映像がちらついて、食事も喉を通らなかったよ。俺は臆病だから、ああいうのは勘弁してほしい」
もみ上げをぽりぽり掻きつつ、ギルはほっとした表情を浮かべていた。
「出血の悪影響も、今のところ見られない。順調に回復すれば、一か月ほどで日常生活に戻れるだろう」
「ワシが余計なことを言って焚きつけたのが、まずかったかもしれんな。商人ってのは、行き当たりばったりで動くから、こんなことになるんじゃよ」
「久しぶりに食材を調達したいですね。カルザスはしばらくお預けでしょうけど、美味いものを作りますよ。ねえ、船長」
カルザスが意識を取り戻した日の夜、彼の容体を案じる者が、宮廷本殿に集まっていた。ここは、カルザスの寝室の真上にあたる部屋だ。バイロンの命で軽い夕食が用意され、テーブルにはレモンティーが給仕されていた。
ターナも席を同じくしていた。この三日間、自身の怪我の痛みよりも、カルザスの容体ばかりに気を揉んでいた。居ても立ってもいられず、日に何度も彼の眠る部屋を訪れ、ただ回復を祈った。だからこそ、彼が目を覚ましたことに心から喜び、深く安堵した。
とはいえ、カルザスを傷つけた事実が消えるわけではない。いかに『発動』していたとはいえ、彼を貫いたのは自分の剣だ。故意ではなく事故だったとしても、それは変わらない。カルザスに対し、そして彼を大切に思う人々に対し、これからどう向き合えばよいのか——ターナの中で答えはまだ見つかっていない。そんな複雑な思いを抱えたまま、ぎこちない笑みを浮かべ、人々の会話に耳を傾けていた。
バイロン、セオドア、ギルの三人も、彼女の胸中を察していた。だからこそ、無闇に励ますことも、冗談で場を和ませることも躊躇われる。誰もが言葉を選び、自分の心境を無難に口にするばかりで、会話はどこか噛み合わなかった。
その中で、ギルは隣に座るジョシュアの様子が気になっていた。仏頂面のまま、ほとんど口を開かない。
この日、カルザスが意識を取り戻したと聞き、陽が傾いた頃にジョシュアとギルは宮廷へ駆けつけた。素直に喜ぶギルが軽口を叩く横で、ジョシュアは大きく胸をなで下ろした。まるで腰を抜かしたかのように、ベッドの傍らに放心状態で座り込んでいた。
いつもの彼なら、悪態や軽口でカルザスを困らせるところだろう。だが、そのときの彼は、口数が少なかった。仕事のことは忘れて、十分に安静にしろと、何度もカルザスに言い聞かせるだけだった。
その態度には、部下を死なせかけた上司としての責任感が滲んでいた。けれどギルには、それ以上に、ジョシュア自身がどこか変調を来しているように見えてならなかった。
ギルは小声で話しかけた。
「船長、大丈夫ですか? さっきから、具合でも悪いんですか?」
ジョシュアは誰とも目を合わさず、難しい表情のまま動かない。だが、それを合図に、ようやく口を開いた。
「いや……その噛み合わねえ与太話が、いつ終わるのか待ってただけだ」
部屋の空気が、ぎゅっと引き締まる。
「盛り上がってるところ悪いが、そこの姫君に話がある」
「え?」とターナは戸惑いの声を漏らした。
「俺は了見の狭い人間でな。このまま落とし前もつけずに、お前さんと普通に付き合えねえわ」
ターナは、ジョシュアが何を求めているのかを察した。清算が必要であることは、彼女自身も痛いほど理解していた。だからこそ、彼が後に引けなくなるよう、あえて挑むような目で睨み返す。
「前振りはいらないわ。言いたいことは全部話して。あなたなら、王室相手に喧嘩を売るくらい造作もないでしょう?」
すると突然、ジョシュアはテーブル越しに身を乗り出し、ターナの襟首を掴んだ。されるがまま、彼女は真正面からその視線を受け止める。
「やめろ、ジョシュア! それはだめだ!」とバイロンが大声で制した。
「バイロンは黙って!」とターナが鋭く命じる。
ジョシュアは怒りに満ちた目で睨みつけた。ターナも視線を逸らさない。セオドアとギルの表情がみるみる硬直する。
「構わないわ。続けて。私は……あなたの怒りを受け止める義務がある」
「よくわかってんじゃねえか。腹は括ったってわけだな」
ジョシュアはそのままバイロンを横目で睨んだ。
「おい、ヤブ医者。この女が本気を出しゃ、俺を再起不能にやっつけるくらい朝飯前なんだぜ。こちとら、殺される覚悟で叱ってやるんだ。茶々入れんなよ!」
勢いに呑まれ、バイロンは口を閉ざした。
「お前、グランブル貿易の仲間になりたいって喚いてたよな。なのに、いざ自分に災難が降りかかったら、誰にも頼らず、一人で片づけようとした。なぜだ?」とジョシュアは低く問う。「そのせいで——カルザスは死にかけた」
ターナの口元が小刻みに震える。怯えた視線が虚空を彷徨う。
「確かに、あの黒装束の女との喧嘩に、俺たちは直接割り込めねえ。意識の中のいざこざだろうが、肉体同士の殴り合いだろうが、妙な石を埋めた者同士で殺し合うしかない。そう思って絶望したのは、わからんでもない」
「そうよ!」とターナは目に涙を浮かべ、激情を吐き出した。「私はあの日、突然あの女の憎悪を叩きつけられた。そのとき、認めざるを得なかったの。私を守れるのは、私しかいないって。どれほど孤独だったかわかる? それから一週間、あの女をどうやって消そうか、身を切る思いで考え続けた。そんな自分が、嫌で嫌でたまらなかった!」
悲痛な声が部屋に響いた。
「カルザスが……私を褒めてくれたの。でも、私はその想いに応えられなかった。醜い人間なのよ。あなたたちにすがる資格なんて、どこにもないわ」
「そのカルザスが、結局お前を助けたんじゃねえか!」とジョシュアが一喝した。「お前一人じゃ、何も片づかなかった。あいつが……お前に後ろから刺された。それでも身を挺して、お前を助けたんだ!」
ターナは目を見開く。喉の奥から、呻き声とも泣き声ともつかない音が漏れた。
「お前は、売られた喧嘩を買う以外に道はなかったと言うんだろう。だが、落ち着いて考えろ。そもそも、黒十字とメスカが戦う理由なんてなかったんだ」とジョシュアは噛んで含めるように続ける。「前提を疑って、周りに相談すればよかった。宮廷の連中でも、俺たちでも構わねえ。一声かけりゃ、違う結論に辿り着いたかもしれねえ。もちろん、俺たちだって、いつも力になれるとは限らねえさ。だが、今回みたいに、何とかなることだってある」
ジョシュアは襟首から手を放した。ターナは、何も言い返せない。
「手前勝手かもしれんが、俺は気に食わねえ」とさらに厳しい口調で詰める。「古本屋で言ったはずだ。お前の勝手で俺たちが危ない目に遭うのはごめんだと。その約束を、お前は反故にした。カルザスは、お前の役に立つって約束を守ったのにな」
ターナの深碧の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
ジョシュアは、なおも切実な口調で訴えた。部下だけでなく王女をも守るために。
「仲間になりたいって、あれほど騒いでたくせに、ずいぶん他人行儀じゃねえか。しょうもない話でも構わねえ。カルザスには——何でも話してやってくれ。あいつにとっても、それが一番なんだ」
ターナのすすり泣きが小さく滲む。
「説教はこのくらいにしておく。お前は賢明だから、ちゃんと呑み込めるはずだ」とジョシュアの表情はいつの間にか柔らかくなっていた。「とにかく、まずは怪我を治せ。武闘派キャラなんざ、似合わねえよ」
胸の奥にのしかかっていた重い枷が、少しだけ外れたような気がした。この粗暴な貿易商の不器用な優しさが、痛いほど身に沁みた。
「ごめんなさい。ジョシュア……ありがとう」
「何だよ、これ! 俺がターナを苛めてるみてえじゃねえか。頼むよ、ホントに。何でいっつも、ヨゴレなの?」
ジョシュアはうんざりした表情で、右手を大げさにひらひら振った。それとなく、ギルに視線を送る。
それを察した彼は、仰々しい身振りで言葉を継いだ。
「ケツの穴の小さいこと言わないでくださいよ。さすが、酸いも甘いも噛み分けた大人の言葉は違いますね。堂々と胸を張りましょうよ」
「アホ言え。健気に日銭を稼ぐ船乗りには荷が重いっての。おい、ヤブ医者とバカ学者も、黙ってねえでしっかりしてくれよ。おめえらが姫様を支えねえと、国が倒れちまう」
「船長は、やり散らかしたら、後は知らねえってタチですからね」
「まあ、そういうわけだ。ギル、ボロが出ねえうちに帰るぞ」
バイロンとセオドアの緊張もようやく解けた。
「本当に、不敬罪スレスレだぞ。もしターナの気が変わったら、呼び出して尋問だからな。覚悟しておいてくれ」とバイロンは肩をすくめる。
ターナの顔にも、かすかに笑みが戻った。そして、静かに一太刀を浴びせる。
「そうね……この借りは、いつか返すわ。絶対に忘れないから」
「おっかねえなあ。くたびれ損じゃねえか」とジョシュアはばつが悪そうに笑う。「まあ、これで後腐れなしだ。また明日、寄らせてもらうぜ」
そう言って、二人の貿易商は部屋の扉へ向かった。横で見送るバイロンに、ジョシュアは小声で言い添える。
「済まねえな。カルザスを頼んだ」
本殿のロビーの片隅まで歩いたところで、ジョシュアは突然、その場にうずくまった。
「船長! どうしたんですか?」とギルが慌てて駆け寄る。
「騒ぐな。ちょっと気が緩んだだけだ」
思わぬ返答に、ギルは目を丸くした。
「あのよ。一国の君主の首根っこ掴むなんざ、まともな神経でできるわけねえだろ。全身から変な汗が出て、パンツまでぐしょぐしょだぜ」
ジョシュアらしい物言いに、ギルは図らずも吹き出した。
「そりゃそうですよね。でも、さすがです。勘所は外しませんよね」
「そんなにいいもんでもねえよ」
右手を後頭部に当て、俯いたままジョシュアはボソリと呟いた。亡き師、コールマンの幻影が瞳に映る。
「旦那。あんたみたいに上手くはできねえが、筋は通したぜ。寿命は縮んだが……これでいいよな?」




