第九章 第六節【宮廷の上空】
グランブル貿易の三人とイーストンは、カフェの屋上に居座り、宮廷の方角から物音がしないか耳を澄ませていた。黒十字の飛行艇が宮廷に入るのを目にしてから、一時間近くが過ぎていた。コーヒーカップはとっくに空になっていた。
カルザスは、ただひたすらターナの無事を祈っていた。もし騒動の兆候があれば、それは彼女が危険に晒されている可能性を意味する。だが、動きがないならないで、不安は募る。いずれにせよ、胃の奥がしくしくと痛むような時間が続いていた。
夏の日差しは徐々に強さを増していたが、柔らかな風のおかげで比較的爽やかな体感だった。
その風が、ふいに止んだ。空気がわずかに重くなる。
と同時に、ギルが訝しげに呟いた。
「……何か、聞こえませんか? 人の声?」
ジョシュアは退屈げだった表情を引き締めた。カルザスも、全神経を集中させて宮廷の物音を拾おうとする。
しばらくすると、人の声の重なりが途切れ途切れに漏れ聞こえてきた。建物の外——庭園や広場で、何かが起きていると思われる。
「始まっちまったかな」と呟くイーストンは煙草の火を消した。
カルザスは、滞留する空気を切り裂くように立ち上がった。無言のままテーブルを離れ、一階へと続く階段に向かう。
「カルザス!」とギルが呼びかける。
「とりあえず、プランタの停泊所に……向かいます」
カルザスは振り返らずにそう言った。その背中に強い決意を滲ませる。
ジョシュアは、わずかに肩を落として宮廷に視線を戻した。
「船長……」とギルが心配そうに声を漏らす。
「あいつに任せよう。もう、ずいぶん前からそういうシナリオだったんだ」とジョシュアは苦しげに眉根を寄せる。「ギル、腹を括れ。もう、止まらんぞ」
その言葉に、ギルは胸の奥が疼いた。
階段を下りたカルザスは、空を仰いだ。彩度の強い青空が目に染みる。額に汗が滲む。
改めて周囲を見回すと、店にも通りにも人影はほとんど見えない。静寂の中、かすかな声の束が宮廷側から断続的に漏れる。
カルザスはカフェ前の通りから東へ向かって三分ほど走った。右折して一本奥に入ったところが飛行艇の停泊所だ。
コバルトブルーの自機をポートへ移動させる。BSカートリッジの発熱を開始し、主水槽の蒸気圧の上昇を確認する。シートに着座し、ヘッドセットを装着した。
ただ、今すぐに宮廷に立ち入っても大丈夫なのか、わずかに躊躇する。当然、宮廷上空を無断で飛行することは禁止されている。
かといって、後手を踏むわけにはいかない。多少の勇み足でも、動くしかないだろう。
スロットルバルブに伸ばした手が止まる。
そのとき、バン、バンと二発の銃声が宮廷のほうから響いた。
驚いたカルザスは反射的に顔を上げ、音のほうを見やる。
——まさか……もう深刻な事態なのか?
ごくりと唾を飲み込む。そして、迷いを捨てた。
すぐさま蒸気圧をタービンに送り込む。ほどなくローターが回転し始め、速度を上げる。安定したところで揚力レバーを引き上げた。
プランタはふわりと浮かぶ。垂直に加速すると、瞬く間に視界が開け、外壁の向こうに広がる壮麗な敷地が目に飛び込んでくる。
西側の彼方には多数の建物が建ち並び、その手前には芝生の整備された美しい広場が見えた。
カルザスは高度を上げながら、操縦桿を操って宮殿へ向かった。近づくにつれ、人々が小競り合いを繰り広げているのが見える。声はプロペラ音にかき消されて聞こえないが、武力衝突が勃発しているのは明らかだった。
そして、異様な速さで剣を振るい、斬り結ぶ二人の姿が目に飛び込んできた。一人は全身黒ずくめの小柄な女だとすぐにわかる。その相手をしているのは、グレイの軍服姿のターナだった。
その姿を目にした瞬間、カルザスの胸に押し寄せたのは、安心と恐怖と焦燥の混ざり合った感情の奔流だった。ターナが無事だとわかる一方、目の前で繰り広げられる人外同士の戦いを、直接止められるとはとても思えない。目を凝らしても残像がちらつくほど動きが速い。
そして、目の前で命のやりとりに身を投じる王女が、魅力的な笑顔を自分に向けるターナと同一人物だとは、にわかには信じられない。
しかし、だからこそ、ターナを助けたいとカルザスは強く想った。この意味のない戦いを止めなければならない。
そのとき、無線機にジョシュアからの通信が入る。
「俺たちも停泊所に着いた。状況はどうなってる?」
「本殿前の広場にターナがいます。黒十字の女と殺り合っています。止めないと」
「手短に言う。こっちから信号弾をぶっ放して援護する。バカどもの気が散ってる隙に、お前はターナを確保しろ。俺も後から行く」
「わかりました。船長……ありがとうございます」
「カルザス、踏み込んだからには絶対に退くな。何としても姫君を助けろ」
「はい!」
「健闘を祈る」
通信を切断すると、ジョシュアは自身のプランタに備え付けの信号銃を取り出した。
「ギル、お前も撃て」
「了解!」
そして、二人と同じ仕草で、イーストンも自機から信号銃を引っ張り出した。
「面白そうだな。俺も加勢してやるよ」
「本当に……てめえは適当な奴だな」とジョシュアが呆れる。
「そういうとこだけはブレねえんだよ」
三人が空へ信号銃を構えた。
「よし……祭りの始まりだ」
衝撃音が立て続けに響く。三発の信号弾が空へと打ち上がった。
ジョシュアは指示を出す。
「俺はカルザスのフォローに入る。ギルは五分後に現場へ入ってくれ。混乱の収拾を頼む」
「どうやって?」
「お前に任せる。尻拭いで悪いが、それも大事な役目だ」
「了解です。そういうの、嫌いじゃないんで」
「頼んだぞ」
信号弾はオレンジの軌跡を絡め、空の高みで閃光を放った。




