第九章 第四節【王女の厳命】
黒十字解放戦線との会談の五分前。
上級執政官ハビエルは、ターナの部屋をノックした。室内の中央には、グレイの軍服で身なりを整えた王女が椅子に腰かけていた。背中を向けていたため、戸口からその表情を窺うことができない。
「ターナ様。そろそろお時間です。ご準備はいかがでしょうか?」
身動き一つない。返事もない。ハビエルは急かさず、静かに待つ。
やがて、ターナが口を開いた。
「ハビエル、少しこちらへ来てもらえる?」
命じられるまま、絨毯を踏みしめて歩み寄る。
「いかがなさいましたか?」
ターナは目を合わせることなく、独り言のように呟き始めた。
「物騒な話だけど、今日はきっと武力衝突が起きるわ。残念だけど」
「まさか、そんな……」
「明らかに殺意を持つ者が、向こうにいるの。そいつと私が斬り合うことになる」
「そんなことがありましても、衛兵がすぐにお守りいたします。どうかご安心を」
「ハビエル。あなたは……」とターナは上級執政官と目を合わせる。「マイヤー家に代々伝わるクリアターコイズについて、ある程度は知っていますよね?」
ハビエルは口ごもるが、どうにか質問に応じる。
「は、はい。国政の重大な場面で、神託が下ると……」
「市井の噂は? もう少し違う作用も知っているんじゃない?」
「あ、ええ。身体能力が飛躍的に高まるとか……。ただ、詳細までは……」
「黒十字側にもクリアターコイズと『同化』した者がいる。その相手と私が斬り合いになったら、あなたたち執政官も、衛兵も、絶対に手を出さないで。これは私からの厳命です」
想像もしなかった言葉に、ハビエルは狼狽える。
「そんなわけには参りません。衛兵すべてがターナ様の盾となります。ですから……」
「絶対にだめよ!」と強い語気で遮る。「無駄死にが増えるだけ。衛兵には、他の黒十字隊員の暴走に備えてもらって。執政官は、直ちに安全な場所へ避難して」
「そんな……」
「優秀な執政官が生き残れば、王国は盤石だわ。あなたたちは、武器を手に取るのが仕事じゃない」
ハビエルは絶句した。王女の強い覚悟が、否応なく伝わってくる。もはや反論できる雰囲気ではなかった。
ターナは静かに立ち上がると、強張る彼の左頬にそっと右手を添えた。ハビエルは驚き、その慈しみに満ちた眼差しを見つめる。
「大丈夫。私だって、生き残るつもりよ。父と同じ道を辿っては、宮廷のみんなを再び落胆させてしまう。そんな事態だけは避けたいと、私も思ってるのよ」
ハビエルの目が潤んだ。まだ若いこの女性に、ここまで腹を括らせてしまう理不尽さに、胸が痛む。
ならば、これ以上彼女に重荷を背負わせるわけにはいかない。ハビエルは動揺を悟られぬよう、力強く答えた。
「承知いたしました。ターナ様のご命令を忠実に守ります」
ターナは満足げに頷くと、悪戯っぽく首を傾げて微笑んだ。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか。しっかりエスコートしてね」
ハビエルは「星霜の間」へ向かうターナに従って歩き出した。キーダイでユージンが錯乱し、その亡骸に寄り添って帰ってきたときのことが脳裏をよぎる。胸が抉られるように痛んだ。さらにその一人娘を失うなど、考えたくもない。
ハビエルは、横に並ぶ小柄な女性の無事を、心の底から祈った。祈るよりほかになかった。




