第八章 第七節【深夜の画策】
その日の夜はすっかり更けた。船窓からは夏の星空が広がる。
カルザスは、慣れない仕事とターナへの心配ですっかり疲れ切っていた。ベッドに身を投げ出すように横たわり、灯りをつけたまま眠りに落ちる。
一方のジョシュアは食堂に戻ると、レモン水を啜り、静かに逡巡していた。
黒十字解放戦線の内情に踏み込むとなると、それなりの危険を覚悟しなければならない。それでも、メスカと黒十字の会談が迫る今、何もしないという選択肢はなかった。
意を決し、無線機の受送話器を左手で持ち上げる。
「船長。お疲れさまです。こんな遅くにどうしたんですか?」
「休んでるところ悪いな、ギル。今、時間あるか?」
「大丈夫ですよ。ちょうどボルボラの業務報告書を書き終えたところです」
「おう。そっちは問題なく片付いたのか?」
「予定どおりですね。前もって船長が地ならししてくれたおかげです」
「そいつはよかった。顔つなぎもできたか?」
「そうっすね。いい機会だったと思います」
ジョシュアの妙に素直な様子に、ギルは違和感を覚えた。
「本当にどうしたんですか、船長?」
短い沈黙が挟まれる。部屋の湿度は高い。
「明日、ボルボラを発つ予定だったよな」
「そうですよ。ネルフィに向かいますけど」
「悪いが、一つ頼まれてほしいことがあってな。ちゃんと手当も出すよ」
「もちろん。業務命令でしたら、従うまでですが」
「ラムールのバクスター・レンジ商会の本社に、直接向かってほしいんだ」
ギルはすぐに事情を呑み込めない。
「副社長のイーストン・スコープスを探し出して、気づかれないように見張ってくれ」
「尾行ですか?」
「細かい行き先のチェックまでは不要だ。ただ、奴を見失わないようにだけ頼む。おそらく一両日中にラムールを離れてクレイトンに向かうはずだ。そのタイミングで連絡をくれ。そして、そのまま跡を尾けてくれ」
「俺たち、いつから探偵稼業を始めたんですか?」
「今晩からだ」
二人の笑いが受送話器越しに重なった。
「一応、事情を聞かせてください」
ジョシュアは、ギルが不在の間の出来事をかいつまんで説明した。ターナが黒十字の女と何らかの決着を強いられていることも伝える。
「正直、厄介ごとに首を突っ込んでるなって思いましたよ」とギルは忖度せずに感想を語る。
「まあな」とジョシュアは苦笑する。「ただ……」
「わかってますよ。船長らしいですもん。放っておけないってのもよくわかりますし」と被せる。「ターナ様の無事が一番ですね。カルザスも傷つかずに済みますし」
「とはいえ、危ないと思ったらすぐに逃げてくれ。自分の身の安全が第一だ。そこはグランブル貿易の基本原則に従ってくれ」
「肝に銘じておきます」
「俺は面が割れてるからよ。悪いな、こんな面倒、押し付けて」
するとギルは、話題を転じた。
「船長、代わりといっちゃあ何ですが、俺からも頼みがあります」
「何だ?」
「前から相談してる件です。年の半分はネルフィに降りて仕事に当たりたいんです。すぐにとは言いませんが、近いうちに」
「ああ、その話な」とジョシュアはすぐに合点がいく。
「俺、自分が一生空を飛び続けるってイメージが、どうしても湧かないんです。貿易の仕事は好きなんですけど」とその声には熱がこもる。「メスカ中部地区の地上業務は任せてください。雑用も喜んで捌きますから」
ジョシュアはギルの希望を黙って聞く。
「あと、空いた時間にナミちゃんの店を手伝いたいんです。ナミちゃん、お母さんの世話も一生懸命やってるから、仕事が思うように捗らないみたいで。俺ができる範囲で助けてあげたいなって思ってます。販促の成果を、貿易の仕事にも活かせるかもしれませんし」
わずかな沈黙を挟み、ジョシュアがゆったりとした口調で応じる。
「いいんじゃねえの。ネルフィに事務所を持つ将来像は、間違ってねえしな。ギルの希望も、俺は理解してるつもりだぜ。ちょっと早いような気もするが、半分地上、半分空って具合なら問題なさそうだな」
受送話器の向こうから、安堵の気配が伝わってくる。
「ボルボラの仕事も手際よく進んだしな。少し落ち着いたところで体制を整えよう。ただし——」とジョシュアはにやりと笑う。「料理の腕は上げておけ。船にいるときは、引き続き俺たちの飯を頼むぜ」
「それは、言われなくてもやりますよ!」とギルの声はいつもどおりの明るさだ。
ジョシュアはふと思う。世界も日常も、弛むことなく揺らぎ、状況は絶え間なく変化していくのだと。
「おめーも、なかなかやるな。人が断れないタイミングで取引を持ちかけてくるとは」
ギルは満足げに返した。
「誰の一番弟子だと思ってるんですか。船長の教育の賜物ですよ。見くびらないでください」




