第八章 第一節【物騒な取引】
すっかり夏の陽気となった昼下がり、ネルフィに停泊中のアライアル号を、ローラが前触れもなく訪れた。船内の食堂で出されたレモン水をひと口啜り、酸っぱそうな顔で文句を言う。
「何これ? レモン入れすぎよ。水が不味いからって、酸味で誤魔化そうとする魂胆が見え見え。普段からこんなの客に出してるの?」
「うるせえな。文句があるならカルザスに言ってくれ」とジョシュアは眉をひそめ、面倒くさそうに返した。「そして、飲んだらさっさと帰れ。明日の朝イチでブッシュタウンに飛ぶんだ。準備があるってのに、ギルが留守で人手が足りねえんだよ。ちんたらお前の相手してるほど暇じゃねえの」
ブッシュタウンとは、ジブ帝国東方にある倉庫街。貿易取引の主要拠点の一つだ。
「お気の毒さま。ブッシュタウンなんて、何もない僻地じゃない。まあ、人生について静かに考えるにはいい場所かもね」
「飯も娯楽もねえが、取引の芽は転がってる。定期的に顔を出すのが、この業界の常識ってもんさ」
「そんなに大事な仕事なのにギルがいないの? 三バカで女の子の取り合いでもして、喧嘩の真っ最中ってわけ?」
「ギルはボルボラで別件の契約交渉中。料理人が本職じゃねえし。そういう仕事も、ぼちぼち任せてんだよ」
「あら? てっきり専属シェフを雇えるほど儲かってるのかと思ってた」
「我々の胃袋を守る重要戦力ではあるが、本職は貿易商です。わかっててボケないでくれる?」
そう言って、ジョシュアもレモン水を口にしたが、咽せて豪快に咳き込んだ。
「おいカーリー、これは酷すぎるぞ!」
「いや、水の臭みがきつくて。もう夏ですし……」とカルザスはタオルで手を拭きつつ、食堂の椅子に座った。「それから『カーリー』はやめませんか? いつも言ってるじゃないですか」
「飲料水には、とりあえず炭入れとけって。いつも言ってるじゃないですかっ」
聞き慣れた応酬に笑みをこぼすローラは、赤い髪を後ろで無造作に束ね、定番のワークウェアに身を包む。仄かにローズの香りが広がる。実は、いつもより少しだけ柔らかめの香水を試したのだが、がさつな船乗りがそれに気づくとは期待していない。
宮廷の「秘密の場所」でカルザスとターナが心地よい時間を過ごした翌日のこと。木目調のシーリングファンがゆったりと回転し、船窓から流れ込む風を掻き混ぜている。夏の空気が食堂に満ちていたが、いくらか暑さは和らいでいる。
「で、何の用だ? お前さんがわざわざ船に来るなんて、ろくでもない予感しかしねえんだが」
「本題までの助走が長すぎて疲れるわ」
苦笑するローラは、留め具で綴じられた三十枚ほどの紙束を差し出した。
「以前、バクスターの取引のこと、話してたわよね?」
ジョシュアの顔つきと声色が変わる。
「何か掴んだのか」
「ひょんなことで、サンデライト港の貿易仲介業者から、奴の取引記録の一部を手に入れたのよ。詳しいことは話せないけど、情報は正確よ。保証する」
紙束をめくると、ところどころに赤ペンで印が入っていた。
「ここ数年で、バクスターが絡んだ取引を抜き出してあるわ。目的を伏せて作った写しだから、余計な情報も混じってるけど……。興味を引きそうなものにはマークしておいた」
「何だこれ……? オイルサーディン、ワインビネガー、黒胡椒、粒マスタード……」
「全部、隠語よ。小銃、弾丸、手榴弾、それから刀剣」
ジョシュアの手が止まり、数字を見て目を剥いた。
「オイルサーディン一缶でこの値段はねえだろ。どんな高級魚だよ」
「だから、小銃だってば。人の話、聞いてる?」とローラは苛立つ。「それにしても、高額すぎる。正規ルートでこの金額なら、三十挺仕入れてもお釣りが来るわ」
「ぼったくりどころの騒ぎじゃねえな」
「最初はゼロの桁を読み違えたのかと思った。でも、別の日付の缶詰めも似たような金額だったから、これで正しいんでしょうね。密輸だから値段は吊り上がるでしょうけど、こんなにひどいのは初めて見たわ。ワインビネガーも同じノリね」
「こんなんでサラダ作ってたら、仕舞いに船が買えちまうな」とジョシュアは呆れる。「よほど弱みを握られているか、商売を知らないボンクラか……」
「買主は『イーストバレイ商事』と『ノースヒル貿易』って会社になってる。でも、どっちもただのダミー会社ね」
「そいつらの取引先は?」
「こっちのリストを見ればわかるわ。結局のところ、この二社を間に噛まして、ブツは『レオ・サヴォイ』に引き渡されてる。こいつは黒十字の頭領。決まりだわ」
「子ども騙しのやり口だな」
「余程のことがない限り、一つずつ順を追って調べる奴なんかいないわ。案外、こんな単純な手口でもバレないものなのよ」
沈黙の時間が流れる。
「でも、おかしいですね」とカルザスが首を傾げる。「黒十字が町を襲うのは、金に困ってるからじゃないんですか?」
「答えは一つしかないわ。誰かが資金提供してるんでしょうね」とローラは顔色一つ変えない。「でも、オイルサーディン一缶分だけでも相当な額よ。何年にもわたってこんな金をポンポンと払える奴なんか、広い汎大陸といえど、そうそういないわ」
「ボロ儲けしている富豪か、上級貴族か……。にしても、黒十字を支援して、何の得がある?」
「あれえ? ジョシュアさんともあろう者が、ずいぶんと切れ味の悪いこと言うわね」とローラは挑発する。「商売は、銭金を取るばかりが目的じゃないって、あなたいつも言ってるじゃない。一杯引っかけて、その錆びついた口を滑らかにしたらどう?」
ジョシュアは睨むような視線を向けたが、反論することなく声を落として応じた。
「相手を大人しくさせておくために金を渡すってことだな。取引の別の動機だ。なるほど」と合点がいった様子で、小さく頷く。「なあ、カルザス。覚えてるか? 国境破りした後に、メスカの宮廷で尋問を受けたときのことだ」
「あのときって、ターナが王女だと知ってもう一杯いっぱいで……。何にも覚えてません」
「しょうがねえ奴だな」とジョシュアは苦笑する。
「そのとき、何かあったの?」とローラは尋ねる。
「貧しいギルザの民を支援しているはずなのに、黒十字の襲撃が止まらないって、国王陛下がぼやいてたんだよ。ひそひそ声でな」
「なるほど。それが事実なら、筋が通るわね」と腑に落ちる。「ユージン様が積極的にお金を渡していたのか、黒十字がたかっていたのか……。まあ、今となっては、どうでもいいか……」
「王国がそんな支援をしてるなんて聞いたことないけど」
カルザスが訝しむ。
「そりゃそうだろ。金を渡した相手は、つまるところ夜盗だ。表沙汰にできるはずがねえ」とジョシュアは顎の無精髭の一本を引き抜く。「おおかた、国王陛下がこっそりポケットマネーを渡したってとこだろうな。果てしなくデカいポケットで、羨ましい限りだよ」
「しかも、闇商人に大金が流れてると知れたら、王国の信用は失墜するわね」
「ああ、面倒くせえ。知らなきゃよかったよ。日々慎ましく生きている商人には重たすぎるわ」
背もたれに身体を預け、ジョシュアはぼやいた。
「ちょっと! あんたが調べろって言ったんじゃないの!」とローラは呆れた面持ちで紙束を突きつける。「これだけって言うかもしれないけど、ものすごく手間がかかってんのよ。一歩間違えば人死にが出てもおかしくないくらい危ないんだからね。冗談でも二度とそんなこと言わないで!」
「……ひょんなことで手に入れたんじゃなかったのかよ」
ジョシュアは細かい反論を挟んだ。しかし、ローラが怖い顔を向けると、さすがに軽口が過ぎたと思い、視線を外す。
「ローラ、お前が優秀すぎるからだぜ。こういうヤバい仕事も涼しい顔でやり遂げちまうからな。つい頼りにしちまう」
「今さらお世辞なんていらないわ。こういう仕事はね、隙を見せると命がいくつあっても足りないの。下手踏まないように、内心は冷や汗でぐしょぐしょなのよ。わかってんの?」
カルザスは、人知れず首を傾げた。
——ローラとは、一体何者なのか?
ただの飛行艇製造販売会社の社長にしては、危険な情報に詳しすぎる。ただ同時に、あまり深く詮索しないほうがいいのだろうと思い直し、疑問に蓋を被せた。




