第七章 第十一節【甘美と絶望】
本殿に戻ったターナは、自室のベッドに俯せになり、じたばたと身悶えていた。「可愛い」というカルザスの声が、頭の中で何度も反響する。身体がじんわりと溶けていくような感覚を、繰り返し味わっていた。
容姿端麗であることに加え、王女という身分とそれに相応しい立ち振る舞いから、美しい、可愛いといった褒め言葉は、飽きるほど聞いてきた。素直にその好意を受け止めはするものの、自らの感情が大きく揺り動かされることは、ほとんどなくなっていた。
それだけに、カルザスの「可愛い」がもたらした破壊力に、ターナ自身が驚いていた。こんなに甘美な心地よさは初めての経験であり、いつまでも浸っていたいと感じた。
普段より心が弛緩していることを、彼女は自覚していた。
そのとき——突然、鈍器で頭蓋を叩きつけられるような衝撃を受けた。
「うあああああっ!」
ターナは絶叫する。同時に、不穏な存在を認め、たちまち何が起こっているかを察した。
「しまった、油断した……!」
それは、憎悪と悲しみの表象であった。ターナはベッドに伏したまま、声が漏れないように枕を強く噛みしめた。
第二撃が襲う。物理的な打撃ではないが、頭が吹き飛ばされたと錯覚するほどだ。声にならない叫びが喉を裂いた。
「落ち着け。追い返すしかない。でなきゃ、殺られる……!」
その存在が『叡智の海』を経由して侵入していることを、直ちに悟った。であれば、その経路をぐっと絞り込むしか、この災厄から身を守る術はない。
それに抵抗するかのように、狭まった空隙から、邪悪な存在は無理やり入り込もうとする。しかし、ターナは全力で抗った。
やがて、気配ごとそれはどこかに消え去った。
しかし、その残像は深々と刻み込まれた。そして、恐怖の感情が噴き出した。
黒十字解放戦線の女——父を呪い殺した『同化者』の存在を認めざるを得なかった。そして、その憎悪の牙を、容赦なく自分に向けてきた。
経路を閉ざすことは可能だ。だが、想像をはるかに上回る威力に対抗するには、間断なくその緊張を保たなければならないのか? その負担たるや、いかばかりか?
しかも、誰の助けを借りることもできない。ターナと黒十字の女、二人だけの戦いだ。救済されるためには、黒十字の女を翻意させるか、抹殺するしかない。
上半身を起こすと、枕に滲んだ血の色が視界を染めた。あまりに強く噛み締めて、口の中を切ったのだ。白百合のブラウスの胸元にも、鮮血が点々と跡を残していた。
右のこめかみに手を当ててさすってみるものの、頭全体が鈍く痛む。口に広がる鉄の味が不快感を増幅させる。
そして、失望の表情でぽつりと呟く。
「カルザスが、可愛いって言ってくれたのにな……」
涙が、とめどなく頬を伝った。ほんの十数分前の安らぎは、もう遠い過去となってしまった。圧倒的な孤独と、逃げ場のない絶望だけが残された。クリアターコイズとともに生きることを宿命づけられたマイヤー家の「業」を、心底から恨んだ。
扉をノックする音が響いた。執政官との面談の時間は、とっくに過ぎていた。ドア越しに会議の延期を指示し、ターナは再びベッドに崩れ落ちた。
黒十字の女に立ち向かう覚悟を、一人、静かに固める。その決意は、あまりにも哀しく、そして痛々しく彼女の中に沈み続けた。




