第七章 第十節【束の間の凪】
二人は門衛所を後にすると、宮廷の西側へと歩みを進めた。手入れの行き届いた植え込みの間を小道が貫いており、やがてその道は、奥に広がる林の遊歩道につながっていた。
ターナは上機嫌にカルザスを従える。まるで風に乗っているかのように軽やかに地面を跳ねる。
林を抜けると、ぱっと視界が開ける。大きな池が、初夏の澄んだ空をその水面に映していた。
「ふへえ……」とカルザスから思わず感嘆が漏れる。「敷地内にこんな場所があるなんて……さすがだなあ」
「こっちにベンチがあるのよ」とターナは手招きする。
並んで座ると、池の対岸に迫る樹林が目に入る。ベンチの背後には、大きなブナの木が枝を広げ、西陽を優しく遮っている。池を渡る風が肌を撫で、ターナの髪がふわりとそよいだ。緑と水のかすかな香りに、シトラスのフレグランスが優しく加わる。
「この池、野鳥がよく来るのよ。あっ、ほら、あそこ」
指さす先に、カルガモの親子が水草の間をゆっくりと泳いでいる。
「可愛い!」
「ほんとだね」
緩やかに流れる時間の中、二人はたわいもない会話を楽しんだ。ターナは宮廷の豊かな環境について語った。次いで、カルザスのリュックサックが気になり、普段の持ち物についてあれこれ訊ねた。彼女自身の雑貨の好みに、話は発展した。
「今度ネルフィで一緒に買い物できたらいいね」
さらりと口にしたその言葉に、カルザスの鼓動が速くなる。
やがて、ターナが腰にさげていた懐中時計を手に取る。見覚えのある六角形だ。
「……あっという間ね。もうこんな時間」
「うん。付き合ってくれて、ありがとう」とカルザスは、残念という感情を表に出さないように努める。
ターナは、座ったまま両足をぶらぶらさせると、ふっとはにかんだ。
「へへっ」
「どうしたの?」
「うん……。えっと、カルザスと会えて嬉しかったなあって」
発熱しそうな感覚に陥ってしまう。照れ隠しも込めて、話題を微妙にずらす。
「でも実はさ、門衛所で待ってる間、やっぱり帰ろうかと思っちゃったんだよ」
「どうして?」
「だって、特に理由もないのに、こんなところまで足を運んじゃったんだ。ターナが嫌な思いをしたらどうしようかと……」
「嫌だなんて……」
かすかに不満げな表情を浮かべる。そして、真っ直ぐに視線を合わせて続けた。
「実はね、一昨日と昨日の夜、あまり眠れなかったの。いろいろと余計なこと考えて落ち込んでて。今日の午前中も引きずってた」
「え? 何かあったの?」と思わぬ独白にカルザスは驚く。
「まあ、ちょっとね。でも、カルザスとお喋りできたから、すっかり立ち直っちゃった。ばっちりのタイミングで会いに来てくれるんだもの。さすがよね!」
カルザスはその評価を上手く飲み込めずにいた。ターナはもう一歩踏み込む。
「じゃあ一つ聞くけど、用事がなかったら、私はカルザスに会いに行っちゃいけないの?」
「えっ? いや、そんなの要らないに決まってる……」
「ね! 要らないに決まってるわ。だから、来たいときに来てね」
ターナは包み込むような笑顔を見せる。
——そんなことで、悩む必要なんかないのよ。
そう優しく諭されているようだった。
二人は立ち上がると、小道を引き返して林の入口まで戻る。
「私はこのまま本殿に戻るね。こっちの道一本で門衛所に戻れるわ」
「うん。今日はありがとう。……すごく楽しかった」
カルザスはそわそわしていた。目も泳いでいる。
「どうしたの?」
ターナは素朴に訊ねる。
「あの、えっと……」
言い淀むが、勇気を振り絞る。
「今までもそうだったんだけど、今日はさ、あの、特に可愛いなって思って……」
ターナは目を見開き、固まってしまう。
「服もすごく似合ってて、ほんとに可愛い」
樹木のそよぐ音色以外は静寂が続く。ターナの乏しい反応を前に、カルザスは慌てふためく。
——え? 何かやらかした? まずかった?
「ごめん、変なこと言って。じゃ、帰るね」
顔を伏せ、足早にその場を立ち去ろうとする。
その様子に、ターナははっと我に返る。
——あ、帰っちゃう。何か言わなきゃ。
「カルザス!」
叫ぶように呼びかける。カルザスは振り返る。
「ありがとう! また来てね!」
ターナは、身体の芯から湧き上がる悦びを、素直に声に乗せる。
両手を大きく振った。最高の笑顔で。




