第七章 第九節【面会の口実】
アニタに惑わされた三日後、カルザスは宮廷正門前の道向かいに立ち、中の様子を窺おうとしていた。約十日前に訪れたときと同じ格好だが、着こなせている感覚は相変わらずない。珍しくネイビーのリュックを背負っている。
真夏の気配が色濃くなった午後。石畳の熱が気温を押し上げ、空の青も一層濃さを増していた。
通行人の視線を避けつつ、カルザスは意を決して門衛所の扉を叩いた。
顔を出したのは、先日と同じ門衛だった。
「おや、カルザスさん。ずいぶん前からいらしたようですね。宮廷にご用ですか?」
怪しげな挙動は、すっかり見透かされている。
「あの、えっと。セオドア・ゴルソン博士は、こちらに来ていないでしょうか?」
「一昨日はお見えでしたが、本日はまだですね。予定も伺っていません」
「そうですか……」
「博士に御用ですか?」
「その、セオ爺の……ゴルソン博士の研究内容について、幾つか聞きたいことがあって。宮廷にいるかと思って訪ねたのですが……」
居心地の悪さもあり、帰ろうかと考えたが、はたと気づく。
「俺の名前……」
「ああ、こういう仕事柄、一度でも来訪された方は、顔と名前を覚えるようにしています。バイロン先生とここでお話しされていましたよね、カルザスさん」
門衛の姿を改めて眺める。白髪交じりの初老の男は、小柄で痩せ気味の体格だ。ベージュの制服をきっちり着こなしている。
「えっと、すみません……。素性を知られていたなんて、お恥ずかしい限りです」
「門衛までは気軽にお越しいただいて結構ですよ。取って食いやしませんので、ご心配なく」と男は穏やかに微笑む。「お帰りになりますか? それとも、ターナ様をお呼びしましょうか?」
「えっ?」
「懇意にされていると伺っております。職務でご多忙かもしれませんが、お声だけでもかけてみましょう。奥の詰所でお待ちください」
男は一礼し、邸内に向かおうとしたが、振り返って続ける。
「申し遅れましたが、私、ロドニー・ベルと申します。宮廷の門衛長を仰せつかっております。今後ともよろしくお願いしますね、カルザス・ウィルさん」
そう言うと、深々とお辞儀をする。折り目正しい性格が滲み出る。
カルザスはおずおずと詰所に入り、椅子に腰を下ろした。以前、バイロンから薬箱を手渡された部屋だ。両頬を軽く擦るようにして気持ちを落ち着ける。
十日前、宮廷でターナが涙を流して感情を吐露したとき、カルザスは心底、彼女の支えになりたいと願った。それは、彼の純粋な想いだった。あのときは、それ以上の意味を探ろうとも思わなかった。
しかし、アニタと会ったとき以来、彼の心には小さなさざ波が立ち続けている。夜、独りで床に就いてもそれは収まることなく、意識の端にこびりついては眠りを遠ざけた。
アニタの言葉は、どれも言い逃れのできない真実を突いていた。身分の差という壁を越えてまで、彼女を支えることにこだわる覚悟があるんだろうか?
確かに、ターナと過ごす時間は何物にも代えがたく心地よい。だが、気の合う友人としての親しさ以外、そこには何もないのかもしれない。もし不意に終わりが訪れたとき、自分は一体何を思うのだろう。
答えの出ない問いが、霧のように頭から離れない。混迷を深めるうちに、無性にターナの顔が見たくなった。
気がつけば、セオドアへの用件を口実に、足は自然と宮廷へ向かっていた。自分でも呆れるほど単純な衝動だったが、それを抑え込む術を、今の彼は持ち合わせていなかった。
そんな彼の心情など知る由もなく、門衛長が気を利かせてターナを呼びに行ってしまった。カルザスの思惑どおりに事が運んでいるのに、その胸には妙な罪悪感が残っていた。
いつの間にか、三十分近くが経過していた。まだロドニーは戻って来ない。カルザスは、そっと帰ろうと決断した。理由をでっち上げて宮廷を訪ねるなんて、やっぱりよくなかったのだ……。
そのとき、誰かが彼の背後から右肩をぽんぽんと叩いた。反射的に首を捻ると、肩に置かれた手の人差し指が右頬にめり込んだ。同時に、シトラスの香りが鼻をかすめる。察したカルザスの身体から、力が抜けた。斜め上の背後に視線を移す。
「ターナ……」
「やった! 引っかかった!」
声の主は、してやったりの表情で小躍りする。
ノースリーブのブラウスは白百合色に輝き、Aラインの膝下フレアスカートは爽やかなゼニスブルーに彩られていた。大きめのフープピアスが銀色に煌めく。ベージュブラウンのミディアムストレートヘアを下ろし、肌の潤いは相変わらずだ。
溢れる清涼感には似つかわしくないその悪戯に、思わずカルザスは笑ってしまう。
「ターナって、意外と子供っぽいよね。かなり古典的だよ」
「だからこそ、引っかかったときの達成感があるのよ!」
彼の左隣の椅子にするりと座る。一つ一つの動作が柔らかく美しい。
「ごめんね。ずいぶんと待たせちゃって」とターナは右手で髪をかき上げる。「今日は朝から予定がなくて、さっきまでひどい格好だったの。髪もぼさぼさで……。そうしたら、カルザスが来たってロドニーから聞いて、慌てて着替えてきたの。久しぶりに明るい服を着たから、なんとなく落ち着かなくて、時間がかかっちゃった」
「いや、俺こそごめん。約束もせずに、急に来たりして」
「そんなの気にしないで! 突然来てくれるのって、嬉しいんだよ」
ターナは、いつもどおり朗らかで、迷惑そうなそぶりはまるでない。続けて、カルザスの容姿に話題を移す。
「あっ、髪切ったんだ。ちょっと雰囲気変わったね」
「うん。今までちゃんと手入れしてなかったんだけど、美容師さんに勧められたから」
「似合ってるよ。爽やかで、すごくいいと思う」
「ほんとに?」
「うん」
カルザスは、ふわふわと宙に浮いたような気分になる。
「ロドニーから聞いたけど、セオドアに用事があったんでしょ?」
「うん。論文を読んでいたら気になることがあって。あの爺さん、どこほっつき歩いてるんだか」
「北方に調査に出かけるって言ってたよ。ずいぶん張り切ってたわ」
「ええっ!」と目を剥く。「あの爺さんが自分から旅に出るなんて……。すっかりキャラが変わったなあ」
セオドアの役に立てていることに、ターナは満足していた。そして、頬を緩めたまま、小首を傾げてカルザスに問う。
「で、わからないところって、どれ? もしかしたら、多少のコメントができるかも」
「うん、実はね」と椅子の背にかけていたリュックを手に取り、中から論文集を引き出す。
「かわいいリュックね! どこで買ったの?」
「どこだったっけ? ネルフィの店だったと思うけど……」
「全然汚れてないわ。大事に使ってるのね」
「実は、まだ新品に近いんだ。久しぶりにクローゼットから引っ張り出してきた」
「きれいな青。そうか、デニムなんだ。うんうん。この色、私はとっても好きよ」
ターナは嬉しそうにリュックの手触りを確かめ、全方位から眺めていたが、ふいに我に返った。
「あ、ごめんね。本題に戻ろう」
カルザスは栞を挟んだ部分を開き、続けて四点ほどの疑問点を挙げた。クリアターコイズの性質や人体への影響に関するものだ。
そのうち三つについて、ターナは自身の体験をもとに見解を述べた。カルザスは何度も頷き、納得に至った。一つだけ残った難解な質問については「後でセオドアに聞こう」と意見が一致した。
窓から柔らかく流れ込む風は、詰所を通して開いた扉へと抜ける。外の日差しは強まっていたが、室内は意外と涼やかだった。
ターナは壁にかかる時計をふと目にし、申し訳なさそうに身をすくめた。
「実はね、一時間後に執政官との打ち合わせがあるの。だから、それまでしか一緒にいられなくて……。ごめんね」
「そんな。突然押しかけたのは俺のほうだよ。全然気にしないで」
「うーん。せっかく会えたのに、もっとゆっくりしたかったな……」と後ろ髪を引かれる想いを隠さない。「あっ、そうだ! それじゃあ、私の『秘密の場所』に連れていってあげる」
「秘密の場所?」
「宮廷の敷地に、子どもの頃からのお気に入りがあるの。緑と水が豊かで心が落ち着くのよ。ここから歩いて五分くらい」
ターナは立ち上がると、扉の外に向けて声を張った。
「ロドニー! ちょっと外すわ。いいでしょ?」
呼びかけに対して、門衛長がひょっこりと顔を出して応じた。
「西の池ですか? あまり遅くなってはだめですよ」
「わかってるわ。もし誰かが呼びに来たら、適当に誤魔化しておいて。一時間後には直接本殿に戻るから」
「仕方ないですね。でも、もし問い詰められたら、さっさと白状しますよ」
「あとで、ペテラ産のレーズンパウンドケーキをお裾分けするわ。何卒、ご配慮を」
ターナは戯けて深くお辞儀をする。
「袖の下ですね。姫様も悪いお方だ」
「お主もな!」
二人は楽しげに笑い合った。ロドニーは、この王女の人生をずっと見守ってきた従者だ。多少の我が儘も可愛くて仕方がない。ターナも、そんな彼に厚い信頼を寄せている。
「では、カルザスさん。どうかターナ様をお願いしますね」
穏やかな笑顔とともに、ロドニーが静かに頭を下げた。
頷くカルザスに、ターナは明るく軽やかに声をかける。
「さあ、行こうか!」




