第七章 第八節【溢れる叡智】
ターナは虚を突かれた様子だった。様々な思考が逡巡し、返答をためらう様子が、その沈黙から窺える。セオドアはそれを咎めることなく、落ち着いて反応を待っていた。
やがて、覚悟を決めたように、視線を真っ直ぐに戻す。
「参ったな……。全部、お見通しなのね」と観念した表情を浮かべる。「ええ、そう。十代前半の頃、何度も『叡智の海』に接触していたわ。最近はすっかりご無沙汰しているけどね」
バイロンは、過剰な情報に溺れそうな様子だ。一方、セオドアは緊張の面持ちを崩さない。
「ごめんなさい、セオドア、バイロン。正直に話すのを躊躇っていた。誰にも話したことがなかったから……」
「ターナ様を責めるつもりなど、これっぽっちもありません。無理もないことです」とセオドアは穏やかな口調で続ける。「話してくださいますね。『叡智の海』のこと。敵対する『同化者』の存在を考えると、可能な限り情報を得ておきたいのです」
ターナは迷いを断ち切り、『同化』の経緯から語り始めた。アイスティーの氷が溶け、グラスに当たってカランと静かな合図が鳴った。
「八歳の誕生日に、曽祖父から受け継いだクリアターコイズを左肩に固定したの。完全に透明に戻った青い石。目を見張る美しさだった。でも、しばらくの間、包帯を洗えずに、臭くてすごく嫌だったのを覚えてるわ」とターナはかすかに首を傾げ、鼻に皺を寄せた。「十日ほど経った頃には、石が部分的に皮膚に埋まっていた。さらに二十日で、完全に体内に吸収されたの。その二か月後には、私の意識に『干渉』をしようとする存在が現れ始めた」
『同化者』の体験談を直接聞くのは、セオドアにとって初めての機会だ。興味を抑え切れない様子が、部屋の空気をかすかに揺らす。
「『叡智の海』は、私の言動を常に評価していた。妥当でないと判断すれば、『干渉』という形で警告を発するの。そこからの数年間は、難しい日々が続いたわ。『女性の身体』に変化する時期も重なったから、精神的に不安定で、ずっと苛々していた。バイロンは覚えているかしら? この頃の私、かなり反抗的だったわよね」
「正直、手に負えなかったな。お妃様が、ずいぶん心配しておられた」
「確か、十一歳の初夏だった。『干渉』に辟易としていた私は、問題の根源に迫ろうと決断した。お節介な『叡智の海』を訪れたの」とターナは眉をひそめて言葉を選ぶ。「そこはね……どんな陳腐な比喩も許さないほど、圧倒的だった。過去も未来も関係なく、ありとあらゆる知識と体験が統合された存在。一瞬のうちに、すべて腑に落ちたわ」
セオドアは一言一句たりとも聞き漏らすまいと、その『同化者』の述懐に耳を澄ませていた。
「怒り、苛立ち、反発、不安……。『叡智の海』の中では、まったく意味をなさなかった。その大いなる存在は、尽きることのない安らぎを与えてくれたの。だから、私は頻繁にそこを訪れるようになったわ」
バイロンは、まだ半信半疑といった顔で黙り込んでいた。
「その……『叡智の海』とは、教師のように疑問に答えてくれる存在なのでしょうか?」
セオドアが遠慮がちに尋ねた。
「少し違うわね。そもそも、人格的なものじゃないわ。『叡智の海』で私が何かを考えると、それに関連する知識が洪水のように脳に流れ込んでくるのよ」
セオドアは、理性的に状況を把握しようとする。だが、その特異性が際立っているため、自身の経験を参照することもままならず、心が折れそうになる。
「最初は面白くて、いろんなイメージを思い浮かべては、何が引き出せるか試してみた。でも、『叡智の海』は容赦がないの。人間にはとても処理しきれない量の情報を投げかけてくる。大半は私にとって意味のないものだから、肝心な情報を取りこぼしてしまうことも多かった」
ターナはアイスティーに口をつけた。
「そこで、ただ漠然と考え事をするんじゃなくて、できるだけ焦点を絞って『叡智の海』にアクセスするようにしたの。私の場合は、政治のあり方に関心があったから、同じことを毎日考え続けた。そうすることで、ようやく少しずつ、自分の欲しい回答が整理されてきたわ」
「政治? 他に何かなかったのか? ファッションとか、恋愛とか」と呆れるバイロンは口角を上げる。
「そっちのほうが気楽だったかもね。でもあの頃は、スキンケアすら、興味なかったから」と肩をすくめる。「そんなことより、威張り散らしている貴族に嫌悪感を抱いていたの。だから、王政なんてやめてしまえばいいのにって思ったのがきっかけ」
ターナは椅子に座ったまま伸びをする。ワンピースの襟ぐりを摘んで形を整える。
「そして、もうすぐ十四歳という頃。その日はちょっと油断して、眠りながら『叡智の海』を訪れたの。体感としては三十分程度かしら。ただ、妙に引き込まれるような感覚が続いていた。そして、目を覚ましたら、約一週間が経過していたの。その間、ずっと眠っていたらしいわ」
「えっ? あの事件は、それが理由だったのか?」とバイロンが驚く。「そうか、身体に何の異常もなかったのは、そういうことだったのか」
「私だって、そんなに時間が経っているなんて、まったく気づかなかった」とターナは小さくかぶりを振る。「あのまま取り込まれていたら、二度と目覚めなかったかもしれない。本当に、危なかったの」
「普段とは違う感覚だったのですか?」と話の先を急かすようにセオドアは尋ねた。
「ちょっと戻りにくいという自覚はあったけど……。心地よい雰囲気はいつもどおりだった。ストレスを感じずに済むというか。ただ、留まり続けるとよくないということは直感していた」
「で、実際は一週間ですか……」
「さすがに懲りたから、それ以来、立ち入ってない。ちっぽけな人間が安易に出入りするものではないと反省している」
バイロンは絶句したが、セオドアは顎に手を当てて思案していた。
部屋を吹き抜ける風がなければ、空気がこもってしまいそうな暑さだった。だが、じわじわと汗が滲むのは、夏の到来のせいだけではない。
やがてセオドアが口を開いた。
「石と『同化』した黒十字解放戦線の女性は、『叡智の海』を通じてご尊父と『接触』した……。そう解釈するのが最も自然かと、私は考えています。いかがでしょう?」
ターナは、わずかに顔をしかめた。
「私は『叡智の海』を通して、他の『同化者』を認識した経験がないから、断定はできない。でも……あり得ると思う」
「ということは、ターナも……」
バイロンは言い難そうに踏み込んだ。顔色が悪い。
「その女が私を見つければ、難しくはないでしょうね」と自分に言い聞かせるように呟く。「それどころか、四六時中、危険に晒されている? いや、ちょっと違うな……」
セオドアはターナの思索を邪魔せず、その答えを待った。
「順を追って話すわね。少なくとも私の場合、『叡智の海』を往来していた経験があるから、そこに向かう経路が広がってしまったような気がする。そのせいか、放っておくと、雑多な情報が勝手に流れ込んできて、耐えられなくなるの。そうならないように、普段からこの経路をかなり絞り込んでいる自覚があるのよ。眩しいときに目を瞑るのと同じ」
推論を辿るように言葉を継ぐ。
「だから、黒十字の女が『叡智の海』を経由して何らかの『接触』を試みたとしても、簡単には侵入できないんじゃないかしら。確信は持てないけどね……」
「ご尊父の場合は、どうだったんでしょう?」
「あくまで想像だけど、父は『叡智の海』に足を踏み入れた経験がなかったんじゃないかしら。警戒していなければ、細い経路であっても、外敵にこじ開けられる危険はある。特にキーダイの会談では、黒十字の女にとって、目の前にいる『同化者』への『接触』は容易だったんじゃないかしら」
ターナは冷静に分析しているが、セオドアとバイロンの不安はむしろ膨らんだ。見えない敵にどう備えるべきか、何も解決していない。
そんな二人を差し置いて、ターナはすっと立ち上がった。部屋を横切り、南の窓辺に立つ。
「セオドア。実に有意義な議論だったわ。研究はこの調子で進めてちょうだい」
その声には、穏やかな決意が込められていた。
「大丈夫。すべて順調よ」
ターナの輪郭から漏れ出た逆光が眩しい。そのため、セオドアとバイロンからは、彼女の引きつった表情を窺うことはできなかった。




