第七章 第七節【世界の深淵】
カルザスがアニタに出会った翌日、セオドアはメスカ王国の宮廷に招かれた。ターナとバイロンに案内されたのは、本殿の最東端にある二階の小部屋。デスクとテーブル、椅子、本棚が備え付けられている。簡素だが清掃が行き届いており、窓からはまぶしいほどの陽光が差し込んでいた。
今日からこの部屋の主となるセオドアは、ターナの本気度に目を丸くした。
「こ、このような素晴らしいお部屋を……。本当によろしいのですか?」
「重要な研究をお願いするのよ。むしろ、こんな端で申し訳なく思うわ」とターナは華やかな笑みを浮かべる。「宮廷の者には、王政の歴史調査と伝えてあるの。決して嘘ではないものね。ただ、あまり目立つ場所を使ってもらうわけにはいかなくて……」
「何をおっしゃいます。現役時代でも、これほど整った部屋は使ったことがありません。光栄の至りです」
「お店を見る限り、セオドアはあまり片付けが得意じゃなさそうね。定期的に執事に掃除させるわ。構わないでしょ?」とターナは悪戯っぽく口角を上げる。
「それは手厳しい」と申し訳なさそうに応じる。「承知しました。できるだけ散らかさないように気をつけます」
「では、宮廷の資料が必要な際は、私にお声がけください。書庫にお連れします」
バイロンは言い添える。彼の仕事がまた一つ増えたようだ。
今日の訪問のため、セオドアは久々にグレイのスーツを引っ張り出し、よれよれのネクタイを身につけた。中折れ帽を左手に抱えている。
「今後、少しずつ書物を運び入れようと思いますが……」
「もちろん! 遠慮しないで。本棚を一杯にしてね」
「ありがとうございます」
「善は急げとも言うし、明日の都合はどう? 若い者を何人か出すわ」
「いえ、それは改めて。実は、明日からラクス自治領へ調査に出向こうと思っていまして」
「えーっ! 素晴らしい行動力ね!」とターナの声が弾む。
「昔の資料を眺めておりましたら、居ても立ってもいられなくなりまして。北方には石にまつわる史跡が点在していますから。四、五日ほど留守にします」
「戻ったら、ぜひ話を聞かせてね。楽しみにしてるわ!」
今日のターナは、ネイビーのワンピースに黒のローファー。肩にかかる髪はハーフアップにまとめられている。シトラスのフレグランスは、彼女の定番だ。
「ふふふ。なぜか私も楽しみになってきたわ。無邪気すぎるかしら?」
「まあ、いつものことだ。新しいことが始まると、途端に浮き足立つ。遠足前の子どもみたいだ」とバイロンがやれやれと肩をすくめる。
「でも、クリアターコイズの謎が明らかになれば、王国八百年の歴史の理解がさらに進むわ」
アイスティーが運ばれ、三人はテーブルについた。
ターナとバイロンはリラックスした表情で会話を続けている。一方、セオドアは神妙な面持ちでグラスの縁を見つめていた。両拳に力が入っている。
そのぎこちない様子に気づき、ターナは声をかける。
「どうしたの、セオドア? さっきから冴えない表情ね。何か気になること、ある?」
わずかな沈黙の後、セオドアはバイロンに向き直り、真剣な表情で語り始めた。
「キーダイの会談の際、黒十字の女は、指一本触れることなくユージン様に致命傷を与えた。そうでしたな?」
「あ、ええ」と唐突な問いに答える。「ユージン様は何の前触れもなく苦しみ始め、その場に倒れました。今際の際に、件の女の仕業だと断言されました」
「先日、この現象は『同化者』間の『接触』であると、私は申し上げました。実際のところ、何が起きていると想像されますか?」
「それが、私にはさっぱり。いわゆる精神感応の一種でしょうか? 医学的な説明はできませんが」
「可能性としてはあり得ます。ただ、王室は別の仮説を受け入れているものと推察します。ターナ様、違いますか?」
矛先が自分に向けられ、ターナはわずかに顔を引きつらせる。返答を探すかのように、視線をセオドアから逸らした。
「申し訳ありません。回りくどい言い方でしたね」とセオドアは小さく頭を下げる。「先日お会いした際は、船乗りどもが同席しておりましたので、踏み込んだ話をするわけには参りませんでした。ただ、黒十字の女という脅威が迫っている以上、これからお話しすることを避けて通ることはできません」
ターナは再びセオドアの目を真っ直ぐ見つめ、唾を呑み込んだ。
「王室では、それを『叡智の海』と呼んでいる」
バイロンは、怪訝そうに視線を彷徨わせた。
「これは、王の嫡流のみに共有される概念。現役時代、先代と先々代に最もお尋ねしたかったことです。宮廷の家臣でも知る者はいないと想像しております。いかがですか、バイロン先生?」
宮廷医は、自らの記憶を探ろうとしたが、それが無駄だとすぐに悟った。
「いえ、初耳ですね。ターナ、どういうことなんだ?」
努めて平静を装いつつも、ターナは覚悟を決めた様子だ。
「さすがね、セオドア。そこまで把握しているのであれば、きちんと話をして、事態の解決を図るべきね」
「無理はなさらないでください。言語化も実証も困難なことは承知しています。少しずつで結構です」とセオドアは柔らかく語る。「ただ、バイロン先生にも理解してもらうため、前提から話す必要がありますな」
「もう、お手上げだよ」とバイロンは苦笑いを浮かべる。
「『叡智の海』とは、『時空を超えた万物の記憶の蓄積』とでも言えばいいのかしら……。よく似た概念は、世界中の神話や神秘思想に見られるわね。『同化者』は、クリアターコイズを介して『叡智の海』とつながっているの。だから、石は媒体と捉えるほうが適切だと思うわ」
ターナは王室の解釈を淡々と語る。
「じゃあ、クリアターコイズそのものが『力の源泉』ではないのか?」とバイロンは、何とか理解しようとする。
「おそらく。でも、これを客観的に証明するのは不可能ね。『同化者』からすれば大した問題じゃないもの」
「それは『同化者』が『叡智の海』からの一方的な受け手である限りにおいて成立するロジックです」とセオドアは鋭く踏み込む。「これに対し、意識の『接触』は、少なくとも一方の『同化者』が、他方に向かって能動的に動かなければ実現しません。その道程で『叡智の海』を経由すると考えるのが自然です」
ターナの表情が強張る。
セオドアは視線を外すことなく、ゆっくりと言葉を継いだ。
「そもそも『接触』とは突飛な概念です。しかし先日、ターナ様はそれを聞いても混乱することなく冷静に対処されていました。『叡智の海』の双方向性に、違和感を持たれていない。私は、そのとき確信したのです」
部屋に緊張が走る。
「ターナ様。あなたは、意識の上で『叡智の海』を自ら訪れたことがある——違いますか?」




