第七章 第六節【姉御の助言】
仕事場の奥のダイニングキッチンにも、クチナシの香りがほのかに広がっていた。テーブルと二脚の椅子、小さなキャビネットが備えられているだけで、生活感の乏しい部屋だ。
上機嫌に鼻歌を歌うアニタは、いそいそとサンドイッチを作っている。横ではスープが温められていた。サラダは既に盛り付けられている。
仕事着代わりのワイシャツを脱ぎ、クリーム色のノースリーブ姿で手際よく動き回っている。豊かな胸とバランスよく締まった腰が、自然と目に入る。
初対面の異性に昼食を振る舞う行動と、その無防備で軽やかな後ろ姿に、カルザスは戸惑いを隠さなかった。
やがて、テーブルに料理が並ぶ。スープからは、香ばしいオニオンの香りが立ち上った。
向かい合う二人は、ゆっくりと食事を始めた。仕事のときとは打って変わって、アニタは柔らかい口調で言葉を発する。若い船乗りの旅の話を引き出し、闇雲に茶化したりせず、素直な驚きや感嘆を示す。カルザスの緊張もほぐれ、次第に会話は弾んでいった。
「ところで、アニタの出身ってどこ? 北方?」
「そうよ。ビムナウ王国のグレイフローラって小さい町なんだけど、知ってる?」
「レモンシティの西側?」
「流石は船乗りね。汎大陸の地理はお手のものってところかしら? でも、どうして北出身ってわかったの?」
「スープの味付けが塩ベースだったし。それと、さっき鼻歌で歌ってたの、北方の子守唄だった」
「よく観察してるわね」とアニタは素直に驚いた。「このスープ、母さん直伝なのよ。ただね、地元では本当に岩塩しか使わないの。私はちょっとだけ胡椒とショウガを足してる。若い頃、そっちのほうが美味しいって気づいてね」
「何言ってるの。まだ若いのに」
「キミから見たら、すっかりオバサンでしょ」
「そんなことないよ。面倒見のいい姉御肌だなとは思うけど。仕事のできる魅力的な女性って印象」
「ふーん。魅力的かあ……」
アニタは意外そうな声を漏らす。次の瞬間、にやにやと身を乗り出す。
「ずいぶんと気の利いたこと言うんだね。そんなキャラには見えなかったよ。虫も殺さない顔して、一撃で女子を口説いて回ってるのかい?」
さばさばした口調に戻った美容師の挑発に、カルザスは狼狽えた。
「そ、そんなことないよ……。誰彼構わずそんなこと言わないし。その、つまり……」
「じゃあ、聞くけどさ」と悪戯っぽく微笑む。「キミの片想いの相手には『カワイイ』とか『キレイ』とか、ちゃんと言ってあげてる?」
カルザスは言葉に詰まり、黙り込む。
「ふふふ。社交辞令では言えるけど、本命の女子を褒めるのは気恥ずかしいってとこかな」
「社交辞令じゃないって!」とカルザスは食い気味に反論した。「本当に思ったことを言っただけだよ。嘘とか、お世辞とか、そういうの苦手だし……」
その声が次第に小さくなる。自然に「魅力的」と言えたのはなぜか、自分でも理由がよくわからなかった。
そんな貿易商の様子を、アニタは楽しそうに眺めていた。
「キミは、母性本能をくすぐるね」
その言葉にカルザスはさらに俯き、耳まで赤くなった。クチナシの香りが、やけに甘い。
「じゃーあ、お姉さんをドキドキさせてくれたお礼に、一つだけいいこと、教えてあ・げ・る」
アニタは身を乗り出し、吐息が届くほど近くに顔を寄せた。開いた襟元から覗く艶肌が目に入り、カルザスはどうにか視線を逸らす。
「気になる女子が目の前にいたら、カワイイとかキレイとか、ちゃんと言葉で伝えなきゃだめよ。『察して』というのは、ただの独りよがり」
「……うん」
「それにさ、その子と仲良しなんでしょ。告白したらいいのに。キミの素敵な言葉を、待ってるかもしれないよ」
「何か、悪いことしてる気分になってきた」
カルザスは下を向いて、レモン水を一口含む。
「別に責めてないわよ。姉さん風吹かせてるだけ」
アニタは椅子の背に体を預け、斜め上を見上げる。
「でもさ、告白できない理由でもあるの? あ、待って。当ててあげるよ」
わずかな沈黙が部屋を占める。右手の人さし指で小さく円を描きながら、アニタは何か思案している。
「そうねえ。気後れするような事情があるのかな? 例えば、乗り越えられない身分の差とか」
「げほっ」とカルザスはレモン水を喉に詰まらせた。
「あ、図星? それ一番厄介なやつだ」と驚く。「貴族か何か? どうやって知り合うのかねえ。そうか、貿易商なら、そんなのといくらでも会えるのか」
「勝手に話、進めないでよ……」
カルザスは咳き込み、目を潤ませる。
「あのさ、茶化さずにアドバイスするよ。例えば、好きで好きでたまらない人がいたとして、キミとその人の相性が世界で一番合うって、本当に言い切れる?」とアニタは訊ねる。「断言してもいい。その人よりずっと幸せにしてくれる相手が、この世のどこかに必ずいるのよ。でも、そういう相手に都合よく出会う可能性は、ほぼゼロ。わかる?」
アニタは席を立つと、テーブルにそっと左手を当てる。
「だから、誰を選んだって、結局は妥協の産物なの。だって、もっといい人がどこかに絶対にいるんだもん。だったらさ、『この人が運命だ』なんて幻想は捨てて、一緒に居て安心できる相手を庶民の中から探したほうがいいわ。上手く恋してる子は、ハードルを無闇に上げずに相手を選んで、十分幸せになってる。わざわざ難しい恋愛に突っ走る必要なんかないのよ。身分の差なんてのは、その代表」
カルザスに背を向けて、器を片付け始める。
「まあ、このくらいにしとくよ。説教臭いオバサンだと思われるのも癪だしね」
「そんな風に言わないでよ」と言い繕う。「魅力的って言ったのは嘘じゃない。頼りになる姉ちゃんみたいだ。ちょっと口は悪いけど」
「言ったわね。覚えておくわ」とアニタは相好を崩す。「まあ、オバサンから姉に格上げしてくれたことに感謝するよ」
窓から心地よい風が、ダイニングを巡る。
「じゃあさ、キミがその片想いの子に振られたら、アタシのこと、次の候補に入れといてよ。ちょっと年上だけど、これでも、売りどき、熟れどきなのよ」
さりげないアニタの発言は、カルザスを再び動揺させる。
「もちろん、アタシがフリーだったら、だけどね」と、このときだけ、少女のように無邪気な笑顔を見せる。「やっぱり、アタシは船乗りが好きなの。今日はたくさん楽しい話を聞かせてくれてありがとうね。カルザスくん!」




