第七章 第五節【粋な美容師】
ターナが執政会議で戴冠を拒否した翌日、グランブル貿易の三人は、メスカ王国の東端、ジブ帝国国境近くの小さな町ドリスを訪れていた。ヤマアラシ頭のジョシュアが、ギルとカルザスを無理やり美容室に連れて来たのだ。ギルは二週間前に散髪したばかりだと文句を言ったが、二人分の料金で三人のカットができるサービス中だからと、ジョシュアはまったく意に介さない。
美容室は、アニタ・ダマーという女性が一人で切り盛りしていた。店内にはスタイリングチェアが二脚と大きな鏡が設置され、海を描いた大きな絵が壁面を飾っていた。背の低いチェストに置かれたクチナシの花瓶から、ほのかに甘い香りが部屋を満たしていた。
四年前、アニタがこの店を始める際、調度品を手配したのがジョシュアだった。彼女はその仕事ぶりに感謝し、美容師仲間に彼の会社を紹介した。それがきっかけで、グランブル貿易の顧客層は大きく広がることとなる。
以来、彼はこの店の常連となった。アニタの腕前は、今や東大陸東方でも評判になるほどだが、大雑把なジョシュアにとって、そんな技術の高さは二の次だった。気心の知れた相手であることのほうが、彼にとってはよほど重要だ。
この日も、ジョシュアのカットは軽快に進んでいた。ハサミの摩擦音が、小気味よく響く。
「何度言ったらわかるの? ツーブロックはね、小まめに整えなきゃ爆発するの。特にアンタの髪質は、無駄に硬いんだから。せめて二十日に一度は来なさいよ。顔の素材は悪くないんだからさ。ちゃんと整えれば、少しはモテるようになるわよ」
「あのなあ、貿易商は君たちが想像している以上に忙しいんだよ」とジョシュアは目を瞑ったまま、口元だけで返す。「爆発寸前の髪型がセクシーってことにしようぜ」
「そんな評価をした女は、有史以来一人もいないわよ。『髪切るの面倒くさいんです~、でもヤマアラシは俺的にイケてるんです~』ですか? 説得力の欠片もないわ」
辛辣な台詞を吐くアニタの手は止まらない。そのハサミ捌きは、彼の強情な髪を軽やかに整えていく。
その様子を、初来店のギルとカルザスが興味津々に見つめていた。事前に話は聞いていたものの、彼女の鮮やかな手際に、二人の視線は釘づけになった。
「それにしても、この状況はそそるわね。アタシ、船乗りが大好きなんだ。しかも三人も。生きてりゃいいこともあるもんだ」
二十代後半という年齢の割に歯切れのいい口調で、アニタは左手に持つ櫛を弄ぶ。
ダークブラウンの長い髪にゴールドのメッシュを入れ、ざっくりまとめて左肩の前に垂らす。ノーメイクに近いのに、肌は十分に潤いを保っている。目鼻立ちがはっきり整い、唇の左下の小さなほくろが自然に目に入る。
男物のライトブルーのワイシャツに、ベージュのワイドパンツは、アニタの仕事着だ。腰からシザーケースをぶら下げ、柔らかく無駄のない動作で作業を進める。
「お前さんの船乗り愛はわかったって。ホント、好きよな」とジョシュアが薄目を開けて応じる。「あれ? 彼氏って船乗りだったっけ?」
「いつの話してんの? とっくの昔に切れたわよ」とアニタは彼の頭から毛くずを払う。「最初はワイルドな雰囲気にぞくぞくしたんだけどね。でもそれって見た目だけでさ。いざってときに一歩も動けないチキン野郎だってわかって、一気に冷めたわ。やっぱりさ、夢に踏み込む覚悟がない男はだめだね。その点、世界を飛び回る船乗りって、やっぱり格好いいと思うんだよ」
「じゃあ、船乗りのヒヨコを二羽連れてきたのは、好都合ってことだな」
「え? 狙っていいの? 頂いちゃっていいの?」
「部下のプライベートに口出しするなんて野暮はしねえよ。まあ、お前さんに喰われて仕事が疎かになったら、空調室でしばき倒すがな」
そのやり取りに、ギルが慌てて口を挟んだ。
「待ってください船長! 俺、ナミちゃん一筋って言ってるでしょ。浮気なんかしませんからね」
「へえ、キミにはいい人がいるんだね」とギルに艶っぽい笑顔を向ける。「心配しなさんな。横恋慕とか面倒なことはしない主義だよ」
その軽口に対して、ギルは心底ほっとした表情を浮かべた。
「じゃあさ、その隣に座ってる爽やかめのお兄さんは、アタシが骨抜きにしても、ジョシュアは怒らないわけね」
「ただ、カルザスには一応惚れた女がいるみたいだから、アニタは略奪になるかもしれんぞ。それでもよければ好きにしてくれ」
「待ちなよ。どっちも相手がいるんじゃないか。船乗りだって喜ばせておいて、ずいぶんだね」と見るからに残念そうだ。
「まあただ、奴は微妙なんだよな。未だ片想いってか? 口にすんのも小っ恥ずかしいぜ。なあ、カーリー」
「カルザスです。何てこと言うんですか。そういうんじゃないでしょ!」
「そういうんだろ。告白してもいないのに、亀の歩みで仲良しになりやがって。思春期かよ?」
ジョシュアのからかいに、カルザスはあたふたと動揺する。
そんな船乗り三人の様子を愉快そうに眺めながら、アニタはカットクロスを外す。床に散らばる髪を箒で集めながら、次を促す。
「じゃあ、ナミちゃんの彼氏。次はアンタだ。座りなよ」
呼ばれたギルは、ジョシュアに代わってスタイリングチェアに座った。
店の外は、陽射しが夏の色を帯び始めていた。鮮やかな青空に、綿雲が散りばめられている。
ドリスは典型的な田舎町だ。大きな産業があるわけでもなく、古くより農業や畜産業を生業にする者が多い。人が溢れ返る都会に比べれば、時間の流れ方はゆったりしている。
アニタがこの町に来たとき、他所者として誰もが距離をとっていた。だが、冗談ばかり言って肩肘張らない彼女に、人々は少しずつ心を開いていった。やがて、その腕前を聞きつけて町の外から訪れる客も増えた。ついでに町で食事をしたり、雑貨を買ったり、中には農作物を買い付ける者まで現れた。
それは、ひとりの美容師の笑顔が引き寄せた、ささやかだけれど確かな変化だった。
ジョシュアは、翌日に控える取引先への連絡のため、一時的にアライアル号に戻った。そんな中、癖毛で悩むギルの散髪が始まった。
「こんな具合でさ。毎朝まとまらなくて手を焼いてるんだ」
「確かに、硬いだけじゃないわね。質感があるっていうのかな。でも、ちょっとした工夫でお手入れ要らずの個性的なヘアになると思うけどね」
「へえ、今までそんな前向きなこと、言われたことないなあ」
「美容師選びって大事だよ。自分のやり方を押しつけて、客の希望を聞かない奴も少なからずいるからね」
アニタはギルの髪を軽く湿らせると、すぐにハサミを入れ始めた。
「じゃあ今日は、カットは整えるだけにして、毎日の手入れのコツを教えてあげる。ナミちゃんもきっと喜ぶよ」
「おお、それはありがたい。楽しみだなあ」
「それにしても、体格の割に顔が小さいね。モテるんじゃないの?」
「全然だよ。たぶんこの髪のせいだと思うんだよね」とギルのぼやきが始まる。「ナミちゃんは、俺の容姿のことを何も言わないんだ。それがありがたくてね。正直、この髪はコンプレックスというか、トラウマなんだよね。前の彼女とその前の彼女は、髪のことと毛深さのことをちくちく言ってきてさ。嫌になるよね。その前の彼女は、俺の身体がガリガリすぎるって言い捨てて別れたんだ。顔も好みじゃないって。しょうがないじゃん。俺の家族はみんなこんな顔だもん。それでさ、最悪なのはその前の彼女でさ」
それを聞いて、アニタは我慢できずに高笑いを響かせた。
「何人彼女いるのさ。そういうのをモテモテって言うんだよ!」
「あれ? 俺ってモテるの? 結論が変わっちまった」とギルは首を傾げて不思議そうな顔をした。
待合の椅子に座るカルザスも吹き出してしまった。ギルの行き当たりばったりの喋りには慣れたはずだが、忘れた頃にこうして笑わせてくれる。
「アンタ、ほんと面白いよ。ギルって言ったっけ。そのキャラ貫いたら、誰からも好かれるね。ナミちゃんも飽きる暇なく幸せだよ」
アニタはカットを終えると、小さな瓶から淡いグリーンのオイルを手に取り、ギルの髪に馴染ませた。
「これはドリス産のヘアオイル。わずかの量で髪全体に伸びる。一日一回、これで髪をセットしてみたらいい。一週間もすれば、あまり髪が暴れなくなるはず」
そう言って、ギルに小瓶を渡す。
「え? もらっていいの?」
「この町じゃそれほど珍しいもんじゃないからね。きっとまたモテるようになるよ」
「ありがとう! えーっと……」
「アニタでいいよ」
「うん。アニタみたいにいろいろ教えてくれる美容師、初めてだよ」
「アタシの流儀だからね。気が向いたらナミちゃんと一緒にまたおいで」
ギルが立ち上がったタイミングで、ジョシュアがバタバタと店に戻ってきた。
「おい、済んだか? ハンコックのおっさんが、急に今晩来てくれって。まったく振り回しやがる」
「えー? 明日、ゆっくり行く予定だったのに。前にもありましたよね、こういうこと」
「コールマンの頃からの上客だからな。悪いがギル、今から一緒に来てくれ。すぐに離陸する」
そう言うと、ジョシュアはカルザスに顔を向ける。
「夕方の用件、任せた。これくらい、一人で対応できるだろ?」
「カインズ建設の決済ですよね」
「お前のプランタを置いていくから、仕事を済ませたらすぐにボルタに飛んでくれ」
「わかりました!」
ジョシュアは書類一式をカルザスに渡すと、アニタに声をかける。
「悪いな。急に出なきゃならなくなった」
「船乗りらしくていいじゃない。アンタもちゃんと仕事してるんだねえ。見直したよ」
「おいおい。喋りは適当だが、仕事は堅実だぞ。お前も知ってるだろう」
「ふふふ。まあね」とアニタは肩をすくめる。「あとは、片想いのお兄さんのカットをしておけばいいんだろ」
ジョシュアとギルが慌ただしく外に出ると、店は嘘のようにひっそりと静まり返った。それと入れ替わるように、クチナシの甘い香りが優しく鼻先をくすぐる。
「さあ、始めようか」とアニタはカルザスをスタイリングチェアへと促した。「これは、二か月くらい前に切ったままってとこ?」
「うん。ちょうどその頃に戻してもらえると嬉しいかな」と自分の髪を右手で摘まむ。「見てのとおり、サラサラすぎて言うこと聞かない髪でさ。ギルはいつも羨ましがるけど、スタイルの選択肢がほとんどないから、いつしか諦めちゃったよ」
アニタは髪に手を入れ、指の腹で梳く。
「確かにキレイな髪だね。若さの賜物かな。歳、いくつだっけ?」
「もうすぐ二十一」
「いいねえ。アタシもその頃に戻れたら、人生いろいろやり直したいわ」
蒸しタオルで髪を湿らせたあと、アニタは手際よくハサミを動かし始めた。
「アタシの好みを言わせてもらえば、もうちょっとサイドを短くしてもいい。顔立ちもキリッと見えて、清潔感が出るからね。それとも、ゆるふわ癒し系を目指してる?」
「うーん。仕事柄、シャキッとしたほうがいいかな」
「貿易商だもんね。じゃあ、いっそのことガチガチの軍人風にする?」
「いや、さすがにそれはやりすぎかな」
会話中もハサミは止まらず、瞬く間に髪のボリュームが減る。途中からバリカンも入り、襟足とサイドがすっきりと整っていく。
「ギルにも言ったんだけどさ、髪は日頃のお手入れが肝心なのよね。毎朝アタシがアンタの毛根をケアしてあげるんだったら別だけど、そういう訳にはいかないからね」
「そりゃそうだよね」とカルザスは軽口に応じる。
「それとも一緒に住むかい? 船乗りなら歓迎するよ」
アニタはふいに前屈みになり、カルザスの目の高さまで顔を近づける。そのまま鏡越しに、真っ直ぐカルザスの瞳を見つめた。
「えっ……」とカルザスは戸惑いの声を漏らす。
「だって、キミ、可愛いじゃない」とアニタはカルザスの耳元で囁いた。
一瞬の沈黙の後、するりと顔を遠ざけて一言つけ足す。
「まあ、歳の差が気になるか……」
そのまま後ろを向くと、掌にすっぽり収まる平たい容器をワゴンから取り出した。内容物を少し手に取ると、カルザスの髪全体に行き渡らせた。
「ほら、仕上がった。ちょっとは男前になっただろ? これは西大陸の常緑樹エキスをブレンドしたワックスだよ」
鏡に映った自分を見て、カルザスは驚いた。艶と立体感が加わった髪が、顔立ちをシャープに引き立てていた。
「すごい。こんなふうにまとまるんだ……」
アニタは容器をカルザスの右手に握らせた。ひんやりとした感触が伝わる。
「しばらく使ってごらん。毎朝、髪を整えるのが楽しくなるといいね」
弟の世話を焼く姉の如く、カルザスに笑顔を向けた。
「あ、ありがとう」
たぶんからかわれているんだろうと思いつつも、カルザスはアニタの笑顔につい魅入られてしまった。
「ごめん。キミ、名前何て言ったっけ?」
「カルザス。カルザス・ウィルだよ」
「いい名前だね。カルザスさあ、今すぐ出発しなきゃいけないのかい?」
「いや、頼まれた仕事は夕方だよ。元々は船長とギルとでゆっくり昼食をとるつもりだったんだ」
「じゃあ、まだ時間はあるね」とアニタはカットクロスを外す。「よかったら、ウチでお昼ご飯、食べていかない? 有り合わせのものしかないけどさ」
「えっ?」とカルザスは驚く。
「いいじゃない。汎大陸を飛び回る船乗りの話が聞きたいのよ。もう少しだけ、しがない美容室のお姉さんに付き合ってくれると嬉しいわ」
アニタのチャキチャキした口調は、いつの間にか影を潜めていた。心から愉快そうにカルザスを誘う。




