第七章 第四節【伝統の綻び】
レオ将軍の頭が焦がされてから、ちょうど一週間後のこと。ターナの一言で、メスカ王国の執政会議は水を打ったように静まり返った。宮廷本殿奥の別棟に備えられた会議用の大きな広間には、少し湿った夏の空気が満ちていた。
国葬が終了して初めて開催される会議には、三名の上級執政官のほか、十二名の業務担当執政官全員が一堂に会していた。本来ならば、ターナが国王としての所信を表明し、その後、戴冠式の段取りを整えていく——そのはずだった。
しかし、議長を務めるハビエルは、すっかり面食らってしまった。
「ターナ様。それは一体……。失礼ですが、ご説明いただけないと、にわかには理解できません……」
スノーホワイトのブラウスに、マットブラックのスーツとタイトスカート。黒のピンヒールに深めのリップ。シニヨンでまとめた髪に、クリスタルのピアスが揺れる。実年齢より大人びた装いのおかげで、王女の凛とした美しさが場を圧倒する。
ターナはこの日、執政会議のアジェンダに抗う意思を固めていた。その覚悟は、普段の柔らかさをあえて排したスタイルに現れていた。
「私は当面、国王の地位を承継せず、国王代理として職務にあたります。もちろん、国王と同じ責任を負う所存ですので、その点はご安心ください。ただし、戴冠式は無期限で延期とします」
会議室が大きく騒めく。
「それは困る。八百年の王国の歴史に、国王不在の時期などなかった」
「国民に何と説明すればよいのか」
「権限も責務も変わらないのであれば、戴冠されればよいのではないか」
執政官らは口々に戸惑いをぶつける。ハビエルは黙ってそれを見守り、発言が途絶えたところで、再びターナを促した。
「理由をお聞かせください。戴冠は単なる儀礼ではありません。極めて重大な問題です」
ターナは動じることなく一同を見渡し、静かに語り始めた。
「父とは違い、私は、国王としての器量も説得力も持ち合わせていません。みなさんも、そのように感じておいででしょう。父ユージンに勝るとはいかないまでも、肩を並べるにはもう少し時間が必要です」とここで言葉を区切った。「その昔は、年端もいかぬ子どもが国王となることもありました。そうであれば、二十一歳の私が戴冠しても、何ら問題ないとおっしゃるかもしれません。しかし、時代は大きく変わりました。思想も、産業も、情報も複雑に絡み合い、多様な問題に対処しなければなりません。その舵取りをするのが、籠の中で育てられた世間知らずの小娘だとすれば、国民が不安を覚えるのは、むしろ当然の感覚です」
「しかしターナ様は、マイヤー家の正統な嫡子でいらっしゃいます」
一人の執政官がそう口を挟む。
「そのとおりです。でも、裏を返せば『血筋しかない』のです。そんな押し付けの権威に自らの人生を預けようという民は、ずいぶん前から減っているのです」
ターナの語り口は、穏やかで揺るぎなかった。
「王国には優秀な執政官がこんなにも揃っているではありませんか。私は、皆様と集団で国を動かす新しい体制を模索していきたいのです」
「もちろん、執政会議は王族の皆様を全力で支援いたします」とハビエルは慎重に発言する。「とはいえ、然るべき時期に、ターナ様は戴冠されるのですよね?」
「本当に必要な状況になれば、戴冠いたします。ただ、私の想定どおりであれば、国王という役割そのものが不要になるかもしれません」
再び、場がどよめく。執政官らは王女の真意を問い質そうとしたが、ターナは淡々と答えを返していく。彼女は、自らへの権威付けが客観的に困難であることを繰り返し述べた。この要点を譲らなければ、互いの主張が交わることはない。
議論も出尽くしたところで、ターナは会議に終止符を打とうとする。
「皆様のご意見は理解しました。それを踏まえて、私が決断いたします」と背筋を伸ばし、一段と明瞭な声で告げる。「メスカ王国の君主は、前国王ユージン・マイヤーでした。我が国は世襲制を採用しているゆえ、現時点で君主の資格を有する者は、私、ターナ・マイヤーただ一人です。——これは、紛れもない事実ですね?」
執政官は沈黙している。
「つまり、現行制度における最終決裁権者が私であることに、異論はありませんね? よって、戴冠は延期するものと決定いたします」
「ターナ様!」とハビエルはさすがにたしなめようと大声を発する。
「約束しましょう! こんな横暴は最初で最後です!」とターナは右掌でテーブルをばんと叩く。「これからは、執政会議が主役の体制に移行します。独断専行ではなく、徹底的な議論を尽くすのです。決議については、私が国王代理として責任を全うします!」
再び、一同が静まり返る。王の後継者が何を見据えているのか。すべてを理解した者はまだいない。ただ、彼女の意志が揺るぎないことだけは、誰の目にも明らかだった。
ターナは、青ざめた上級執政官長に視線を向ける。
「ハビエル、本日の議題はこれだけですね?」
「……あ、はい」
「では、閉会としましょう。ただし、黒十字解放戦線の件は急務です。明日以降、速やかに再招集をお願いします」と手元のファイルをまとめる。「せっかくの機会です。それぞれの担当領域から、対応策を提案してください。みなで議論し、充実した施策としましょう。——ハビエル、取りまとめをよろしく」
ターナはくるりと踵を返すと、広間を後にする。残された執政官は、過ぎ去った嵐を見送って立ち尽くしていた。
「仕事のやり方が変わりますな。それにしても……」
「国民への説明を、しっかり考えねば」
「現場をご存知ではないから、仕方あるまい。だが、聡明な方だ。いつか思い直されるに違いない」
「責任は負うとおっしゃっている。何かお考えがあってのことでは」
思い思いの戸惑いが漏れ出る。だが、決まってしまった以上、国王不在の体制で事に当たるしかない。
テーブルの端で陪席していたクララが、静かに立ち上がった。ゆったりとした口調で言葉を発する。
「皆様、娘が身勝手なことばかり言って、大変申し訳ございません。夫と私は、国を司る者の育て方を、少々誤ってしまったのかもしれませんね」
深く頭を下げる王妃に、ハビエルが慌てて応じる。
「い、いえ。妃殿下、何をおっしゃいます。私ども一丸となって、ターナ様をしっかりと支える所存です。確かに時代の変化は速くなっておりますゆえ……」
クララは普段と変わらぬ微笑を浮かべる。ただ、言葉では注文をつけ始める。
「ハビエル。あなたがそのような及び腰では困りますよ」
声は穏やかだが、その口調には明らかな圧が込められていた。
「八百年にわたり培ってきたマイヤー家の伝統を、あのような気の迷いで崩してはなりません。安定した王政を自ら壊すなど、もってのほかです」
クララの辛辣な発言に、執政官は当惑した。
「今の娘に、何を言っても無駄でしょう。ですが、国王代理として重責を担っていけば、いずれ理解するときが来ます。私の夫が、どれだけの覚悟でこの国と向き合ってきたかを」
ハビエルは、クララの張り付いた笑顔の奥に、静かな怒りを読み取る。
「メスカ王国の発展とマイヤー家の繁栄は、ぴったり重なり合うのです。私はそれを見届けない限り、安心して夫のところに旅立つことができません」と、いささか物騒な表現を使う。「本来であれば、娘の戴冠を見届けたあと、この執政会議への陪席も止めるつもりでございました。ただ、残念ながら、当分はそうもいかないようです」
そしてクララは、ゆっくりと腰を折り、丁寧に礼を尽くした。
「道を違えぬよう、どうか娘を導いてやってくださいませ。それは、皆様の務めでもあります」
その姿を見て、ハビエルも慌てて立ち上がった。心に燻る小さな違和感を打ち消し、負けずに深々と頭を下げる。
「お妃様。そのお言葉、深く受け止めました。私どもも精一杯、ターナ様のために、メスカ王国のために、粉骨砕身の思いで働きます。どうか、ご慈悲をもってお見守りくださいませ」




