第一章 第六節【二人の君主】
ジブ帝国皇帝モーリス・カイトは、渋い表情でストレートティーを口にしていた。理由は、茶葉の風味だけではない。東大陸の治安の悪化を憂慮しているためだ。
ここはメスカ王国宮廷の貴賓室「風樹の間」。中規模の広間だが、高い天井、重厚な家具、柔らかな絨毯など、国賓を迎えるに相応しい格式を備えている。古風な木製のサイドチェストの上で、緋色のバラが優美に香り、クリスタルガラスの花瓶は照明を弾いて気高く煌めいていた。
どっしりした一枚板のテーブルを挟み、モーリスの正面には、メスカ王国国王ユージン・マイヤーが腰かけていた。その前にも紅茶が置かれている。
メスカ王国とジブ帝国は、その東側で長い国境を接し、古くより友好関係を維持してきた。両君主は、年に数度互いを訪れ、大陸の施政について意見を交わしている。
今回は、モーリスがメスカの宮廷を訪問し、運輸、移民、関税の問題、そしてギルザの地の扱いなどを話し合った。
二人は、多くの政策で協力関係を確認したものの、黒十字解放戦線への対応については意見を異にした。モーリスは強硬派、ユージンは穏健派。その立場の違いは、議論の節々に滲んでいた。
「ユージン殿。黒十字は武装を強化し、襲撃も収まる気配がない。国境の警備をさらに厳重にすべきではないか」とモーリスが厳しく問う。
「しかし、これ以上の警備強化は、彼らの反発を招く。かえって事態を悪化させる恐れもある」とユージンは冷静に応じる。
「いや。『目には目を』だ。今からでも遅くはない。守るだけではなく、蛮族の本拠地をこちらから攻めることも、真剣に考えるべきだろう」
「待ちなさい、モーリス殿。攻撃といっても、山岳地帯に逃げ込まれ、ゲリラ化されてしまっては、打つ手がなくなる。我々にも甚大な被害が出る。彼らの要求を冷静に分析し、歩み寄る道を模索するのが、より生産的ではなかろうか」
議論は平行線を辿ったまま、収束の兆しを見せなかったため、一旦幕を引くこととなった。
外はすっかり宵闇に染まり、これから晩餐の時間を迎える。モーリスは、このまま宮廷に一晩滞在し、明日の公式会談を経て帰国する予定だ。
二人の元首は、オーソドックスなスーツ姿で会談に臨んでいた。執政官を伴わない今宵の事前協議は、堅苦しさを排した装いでも問題ない。
そして、冒頭より同席していたクララとターナも、落ち着いた濃紺色のシンプルなワンピースに身を包んでいた。
二年ほど前から、このような首脳会談に、ターナも同席する機会が増えている。五十二歳を迎えたユージンは、まだ精力旺盛だが、一方で何が起こるかわからぬ年齢でもある。自らの仕事ぶりを後継者に伝えようとする思いが、年々強くなっていた。
モーリスは紅茶を口にすると、王妃に視線を向けた。
「それにしても、クララ殿。お嬢様は立派になられたな。何も心配はいらんでしょう」
「まあモーリス様。お世辞はそれくらいにしてくださいませ。これ以上、じゃじゃ馬になっては困りますわ」
クララは微笑みを絶やすことなく応ずる。
「そんなことなかろう。美しく、凛々しく、賢い。我々の国益にとっても、貴国の安定は不可欠だ。ターナ殿なら、民も不安なくついていくだろう」
「モーリス閣下、勿体ないお言葉です」とターナは深々と一礼した。
「なあユージン殿。もういつ死んでも悔いはないんじゃないか?」とモーリスは少々不謹慎な軽口を叩いた。
「はっはっは。そう言えるのは、もう少し先だな。もっと、政治の厳しい現実を直視しなければならん」
表向きは落ち着き払っていたが、ユージンは内心焦っていた。次は賓客の娘の話題に触れなければならない。我が娘の自慢に聞こえる話をこれ以上続けるのは、モーリスへの配慮に欠けると思われたからだ。
「モーリス殿のほうはいかがか? ミレニア殿は息災かね?」
皇帝の顔にかすかな翳りがよぎる。が、自らに言い聞かせるように答えた。
「あの子は頑張っている。なかなか形にはならないが、毎日努力している」
「うむ。前回の会談の折には、顔を見せてくれた。私は本当に嬉しかったのだよ」
「そう言ってもらえると、私も心が救われる」
モーリスの一人娘ミレニアは、現在十三歳。四年前に母親を病で亡くし、それ以来、ほとんど言葉を発さず、部屋に籠る生活を続けていた。
彼にとって、ミレニアは何よりも大きな気懸かりだった。
すると、ドアをノックする音が響き、執事の一人が慌てて入室した。
「閣下。ただいま、急報が入りました。マイルの市場が、黒十字の一団によって襲撃されたとのことです。被害の詳細はまだ不明ですが……」
モーリスは、大きな音を立てて椅子から立ち上がった。その顔は怒りで真っ赤に染まっていた。
ユージンは声をかける。
「モーリス殿……」
「私はもう限界だ。たかが蛮族が!」とモーリスは唸った。「ユージン殿、あなたの理想はもっともだ。本音では私だって共感している。だが、政治とは『現実』なのだ。現状を打開する最良の策は、貴殿の方法ではない!」
モーリスは大股で出口へ向かった。そして扉の前で振り返り、厳しい口調で言い放った。
「大変遺憾だが、晩餐には同席できない。すぐに帰国し、対策を協議せねばならん。見送りも結構だ。緊急事態ゆえ、ここで失礼する!」
扉の閉まる音が鳴ると、ユージンは天井を仰いで眉をひそめる。
クララとターナが近づき、国王をそっと労う。
「仕方がないわ。モーリス様も悩んでおられるのよ」
「まったく……難しいものだ」
そう呟くユージンは、ふいに顔をしかめた。
「あなた、どうなさったの?」
「お父様、大丈夫?」
二人の案じる声が重なる。
「いや、大丈夫だ。ただ少し、頭がふらついてな……」
「無理なさらないで。昨日も遅くまでご公務だったのだから」
「ありがとう」
ユージンは立ち上がり、寝室に向かうことにした。かすかに漂うバラの甘い香りも、彼を癒やすには足らない。
「最近、頭痛が増えたな。いつも前触れなしだ。一体、何が……」




