第七章 第一節【暗躍の詩人】
その者は、薄いベージュ色の擦り切れたマントに全身を包み、つばの広いモスグリーンの帽子を目深に被っていた。濃紺の布で鼻から下を覆い、その表情は傍目からは窺えない。肩にかかりそうなブロンドヘアは数か所跳ねている。底の厚い黒のショートブーツはかなり使い込まれていた。右横に並ぶヴィクトルより頭一つ分以上小さく、左隣の小柄なレスターとよく似た体格だった。
彼らは、剣術の稽古に打ち込むサイカを見守っていた。木剣を手に、黒十字解放戦線の隊員と仕合っている。黒の戦闘服の上下に、深紅のリボンが目を引く。
カルザスが宮廷を訪れ、ターナとバイロンに会う前日、コロキス郊外にある屋外武道場の片隅での出来事だ。人の動きがあるたびに、砂煙が舞う。
「なるほど。反応の鋭さに加えて、無駄のない剣捌き。力任せというより、動きが洗練されている印象ですな」
マント姿の人物は、飄々とした口調で感想を述べた。
「敏捷性だけではありません」と、ガスパルが少し離れた位置から語気を強めて言い返す。「筋密度も目に見えて増している。クリアターコイズの影響に相違ありませんぞ」
「ふむ。専門家が仰るのであれば、きっとそうなのでしょう」
その瞬間、ドンという音とともに、対戦相手の男が吹き飛ばされる。黒十字でも五本の指に入る強者だ。にもかかわらず、サイカはほとんど息を切らしていない。
彼女は『発動』していない。しかし、肉体の性能と戦闘の技術は十分に高く、もはや解放戦線に敵はいない。
「サイカ殿、クールダウンを。すぐに身体のチェックを始めよう。あと、水分補給も怠らぬように」
ガスパルはそう言い残すと、武道場を後にする。
サイカは倒れた相手に手を差し出してゆっくり起こすと、小さく一礼した。そして、襟を大きく開いて上着を脱ぎ、タオルで汗を拭う。オパールグリーンのタンクトップ姿から垣間見える肩周りや上腕部は、引き締まった筋肉に覆われていた。
「サイカ・ノヴァク殿」とマントの人物が中性的な声で語りかける。「かの聖なる石が『発動』せずともこれほどの力量。日にどのくらいの時間を訓練に費やしているのでしょう?」
一瞥をくれたサイカは、そっけなく答える。
「体調がよければ、日のある時間帯はほとんど」
「おお、それは立派ですな」
「そこまで鍛えなきゃいけないのか?」とレスターが不安げに口を挟む。「強くなるのは大事だけど、サイカの身体が心配だよ」
「必要だ。『発動』したときに耐えられる肉体を作らなければならない」と断じて両腕をほぐす。「ギルザを守るためであれば、私は何だってする」
感情に乏しいその口調は、レスターからそれ以上の反論を奪う。
「つまり、サイカ・ノヴァク殿が日に日に逞しくなるのは、かの聖なる石の加護もさることながら、日々の鍛錬の賜物というわけですな。これは興味深い。ガスパル・オルティス博士は石の作用ばかりを強調するが、果たしてその寄与はいかばかりか」
マント姿の人物の表情を窺い知ることはできないが、その語り口は愉快そうだ。
「いや、失礼。科学的な推論は、学者殿の拠り所ですからな。もっとも、黒十字解放戦線にとっては、サイカ・ノヴァク殿が高性能な武器として働いてくれれば十分」
サイカを侮るその者に対して、レスターは刺すような視線を向ける。
マントの人物は自らを「エス」と呼称し、含み笑いを漏らして飄々と続けた。
「それは、エスにとっても同じこと。世界が変わるのであれば、戦闘能力の原理など、枝葉末節」
「遅くなった。吟遊詩人殿」
そこへファビオが姿を現し、短く挨拶した。
「これはこれは、ファビオ・ガルシア殿」
吟遊詩人と呼ばれた者は、帽子のつばを指でつまみ、仰々しく応じた。
「ガスパル・オルティス博士が、聖なる石の効果を見よとエスに食い下がりましてな。そこまで言うならと、お邪魔しておりました。とはいえ、エスの浅知恵では、偉い学者殿のご高説には到底ついていけませぬ」
丁寧な口調だが、その節々に蔑みの色が混じっている。
「あいにく、サヴォイ将軍は不在だ。何かあれば私が承ろう。いかがか?」
「特に何も。そろそろお暇いたしますよ。少なくとも、ファビオ・ガルシア殿はエスを歓迎しておらぬよう見受けられる。長居は無用」
「何が言いたいのかね?」とファビオの声がわずかに硬くなる。
エスは芝居がかった動きで肩をすくめた。
「ファビオ・ガルシア殿にとって、聖なる石を持ち込んだ吟遊詩人エスとは——ギルザを解放へ導く祝祭の神か、年端もいかぬ娘を修羅の道に投げ込む悪魔か。まだ判断しかねておられる」
「吟遊詩人殿にとって、それは取るに足らないことであろう」とファビオは冷静に返す。「わからないのは、そなたらが我々に石を託し、学者を招いた理由だ。一向に、見返りも求めない。我々の理解を超えた動機をお持ちのようだが」
「繰り返し申し上げております。吟遊詩人エスは、世界を変える引き金を引き続けるのです」と芝居の口上のごとく滑らかに語る。「メスカ王国は、八百年もの長きにわたり連綿と続いております。逆に言えば、それだけの期間、東大陸は停滞しているのです。これは人類の怠慢にほかなりません。少しでも未来が今より良くあるべきだと願うなら、変化を選ばねばならない。マイヤー家に代わる導き手が必要なのです」
「それが我々の役割と申すか?」
ファビオの口調には、あからさまな懐疑が滲む。
「誰でも結構。黒十字解放戦線が歴史に虐げられるのを止め、歴史を創る側に立ちたいと願うのであれば、汗を流して働くしかありませんでしょう。エスは期待していますよ」
その目許がかすかに笑ったように見えた。ファビオは眼前の者の真意を、なお測りかねる。




