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王女は、業に抗った  作者: 一石千月
第六章 クリアターコイズと口喧嘩
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第六章 第十節【学者の再起】

 セオドアにとって、クリアターコイズの研究は、過去に終わった話だ。ガスパルが彼の傷を抉ったとしても、王室の嫡子が唐突に現れたとしても、感慨も期待も失望も、彼の中ではすっかり枯れ果てていた。少なくとも、本人はそう思い込んでいた。

 にもかかわらず、目の前の王女は、一介の老学者に対する敬意を隠さず、誠実な眼差しを向ける。一つ一つの言葉、ふとした振るまい……。慎み深く気品に溢れ、情感豊かに接するターナに、彼はいつの間にか魅入られていた。

 だからこそ、王室の役に立つには限界があることを隠すわけにはいかない。セオドアにとっても、クリアターコイズはわからないことだらけなのだ。理解の及ばぬ領域を、安易な憶測で語りたくはなかった。これは、未知の事象に対する彼なりの譲れぬ一線だった。

「わざわざ足を運んでいただきながら、十分な助言もできずに申し訳ありません。ご尊父にまつわる難事を乗り越えるには、二十年前に止まった拙識では十分ではありませんでしょう」

「そんなことはありません! 示唆に富んだお話を聞かせていただき、感銘を受けております」

 そして、バイロンに目配せをして、ターナは一歩踏み込んだ。

「博士、実は一つご提案があります。クリアターコイズの研究を再開しませんか? 博士の止まった時計を、もう一度動かすのです」

 セオドアの目が大きく開いた。

「自由に使っていただけるお部屋を、宮廷にご用意します。マイヤー家の書庫も、可能な限り開放します。そして何より、ここに『同化者』が居ります」とターナは自らの胸に手を当てる。「いつでも体験をお話しします。その代わり、私たちの相談にも乗っていただけないでしょうか? もちろん、この素敵な書店の経営は続けてくださいね。若い人を雇う支援もできます。それに、カルザスの『本棚』を奪うのは忍びないので」

 そう言って、悪戯っぽい視線をカルザスに向ける。話を振られた本人は慌てた。

「いや、本棚って……言葉の綾だよ」

「ええ? そうなのかなあ?」とターナは相好を崩す。

「だって実際、この店の売上げに、俺はかなり貢献してるはずだよ。そもそも、この汚い店のどこが『素敵』なの? お世辞にもならないよ」

「あら、私は好きよ。だって、本の匂いって落ち着くじゃない。まあ確かに、もう少し商品を整頓してもいいかもだけど」

「ほら聞いたか、セオ爺。王室のご提案には逆らえないぜ。この際、全面改装したらどうだ?」

「うるせえ。わしだって片付けたいんだ。ただ、収拾がつかなくなっちまって……。老体には堪えるんだよ」

 カルザスに対しては口調は乱暴になるが、俯き加減に吐いたのは弱音だった。

 ターナはそっと立ち上がり、セオドアに近づく。片膝をつき、その左手に優しく手を添えた。

「私に任せてください。博士が研究を進めやすいように、全力でお手伝いします。そして、私たちに力を貸してください」

 王室が庶民に対して取る態度ではない。セオドアは困惑した。

「ターナ様、なぜそこまで? 同情や贖罪でしたら、そんなことは……」

「違うの! いえ……まったく無いとは言わないけど」と少々声高に弁明する。「今日、博士にお会いして、すぐにわかったんです。どれだけ誇り高く研究を積み重ねてきたのか。どれだけ研究対象に誠実に向き合ってきたのか。私は、そんな博士からこれから教えを請いたいと思ったのです」

 セオドアは、眼前の女性を貫く真っ直ぐな芯を強く感じた。無駄に言葉を飾らず、仰ぐ者には躊躇なく頭を下げる。王女からは、人間としての聡明さと包容力が滲み出ていた。もはやその魅力に抗うことはできなくなりつつある。

「ありがとうございます。ただ、これは予想ですが、仮に研究が進めば、クリアターコイズの負の側面が明らかになることでしょう。ターナ様はこの先、この石をどう扱うおつもりですか?」

「重要なご質問です」と静かに応ずる。「今のところ、クリアターコイズへの依存を、私の代で終わらせようと思っています。もちろん、先のことはわかりませんが」

 想像を超えた返答に、セオドアは二の句が継げない。

「技術が発達し、人や情報の流れも汎大陸の隅々まで広がる時代です。もはや石のことをマイヤー家の極秘事項として隠し通すのは現実的ではありません。そして、人々の価値が多様化する中、国王の判断、ひいてはクリアターコイズの判断で世界を動かすのは、適切ではありません。民が自らの意思で、自らの世界を作るべきです。クリアターコイズは、その役目を終えようとしているのです」

 ターナの声は力強く、そこに迷いはなかった。

「もっとも、石は学術的に極めて重要な対象です。なぜこのような物が存在するのか、私たちはよく検証しなければなりません。そのためには博士、あなたの力が必要なのです。一人で難しければ、後継者を育ててください。これは重大な使命なのです」

 セオドアは、王女の聡明さに感嘆していた。自らの信念を貫こうとする強靭な意思と理知的な判断に強く共鳴した。

 二十年前に止まったはずの時計が、胸の奥でかすかに音を立て始めている。もう、そこから目を逸らすことはできなかった。

「わかりました。ありがたくお引き受けします」

 丁寧に頭を下げる。と同時に、重大な疑問が浮かんだ。問わずにはいられない。

「……その決断に対して、クリアターコイズは何と?」

 ターナは一瞬戸惑ったが、すぐに自らの感覚を確かめる。そして、満足げに頷いた。

「博士、素晴らしい質問です。先ほどから、何らの『干渉』もありません。すなわち、クリアターコイズも容認しているのです。まあ、石ころに後押しされているようではまだまだですが……」

 セオドアも、ようやく笑みを浮かべる。

「それは興味深い。好奇心が触発されます」

「同感です」

 ターナは立ち上がり、付き添いの宮廷医のほうを振り返った。

「これで契約成立です。バイロン、明日以降、手配をお願いします。博士と協力して、事に当たってください」

 バイロンは、緊張から解放された表情を浮かべた。


 場の空気がふっと和らいだそのとき、ターナは戸口に向かって呼びかけた。

「ジョシュア、ギル、終わったわ! 入ってもらえるかしら」

 扉が音を立て、二人の男が顔を覗かせる。ギルは大きな袋を二つ抱えていた。

「待ちくたびれたぜ。まあ、つつがなくまとまったようで、何よりだ」

「ありがとう。おかげで落ち着いて話ができたわ」

 思わぬ来客にセオドアは驚く。

「お前ら、何してたんだ?」

「門番だよ。重てえ話するってんで。邪魔が入っちゃいけねえからな」

 無精髭を撫でるジョシュアは、軽口を叩く。そしてカルザスの首を後ろから右手で掴み、渋い表情を装う。

「こいつがよ、ターナが困ってるから助けたいって、勝手に王室と契約しちまったんだ。俺たちは巻き込まれ事故だよ」

「『そいつは面白い』って、結構ノリノリだったじゃないですか!」とカルザスは反論する。

「あのなあ、最後は姫君が直々に依頼しに来たんだぞ。卑しい貿易商に断る選択なんかねえよ。グランブル貿易は、契約を大切にする信用第一の会社だからな」

 ジョシュアはカルザスの後頭部を笑顔で軽く小突く。そしてセオドアに向かって続けた。

「そういうわけだ、爺さん。こいつはこき使ってくれていいからな。どうしようもないときは、俺とギルがちょちょっと手伝ってやるよ」

「恩着せがましいな」とセオドアは苦笑いする。


「さあ! せっかくだから、この出会いを祝して、ささやかなパーティにしましょう!」

 ターナは少しばかり高揚した様子で一同に声をかけた。芝居がかった身振りで両腕を大きく広げる。

 ギルが袋から料理を取り出す。スモークサーモンとポテトのオードブル、ハムとチーズの盛り合わせ、レタスのベーコン巻き。人々の食欲を刺激する。

 ターナは、驚くセオドアにワインのボトルを嬉しそうに掲げた。

「カルザスに聞いたんですけど、五十二年のピアレリ産の赤がお好きだそうで。ギルに大急ぎで準備してもらいました」

「結構、探し回ったんだぜ」とギルは得意気だ。「モノがいいから、なかなか流通してないんだよ。でも二本入手できたのはラッキーだった」

「さすが、貿易商は頼りになるなあ」とターナはますます上機嫌だ。「コルク抜きを頂戴」

 ステムなしのワイングラスに、ターナが丁寧に赤い液体を注ぐ。


 六人がグラスを手にすると、芳醇な香りが書店の空気に溶け込んだ。

「ちなみに博士、ここにいる面々は、王女である私を『ターナ』と呼び捨てにしてぞんざいに扱う不届者ばかりです。もう慣れましたが」

「いやいや、違うだろ」とグランブル貿易の三人は声を揃えて異議を唱えた。

「息ぴったりね。リハーサルでもしたの?」と愉快で仕方がない。「博士も晴れてその仲間になりました。これからは砕けた言葉遣いでいきましょう。私もそうしますから」

「そんな、滅相もない。ここにいる船乗りどものような無礼はできかねます」

「そう言うと思った!」と崩して続ける。「今すぐにとは言わないわ。でも、いずれそれが自然になれば、楽しいと思うの。ね、セオドア!」

 そしてターナは一同を見渡し、乾杯を促した。

 待ってましたとばかりに、ジョシュアが勢いよく食事を口に運ぶ。

「船長、一人で食い尽くさないでくださいよ! つまむ程度しか用意してないんですから」とギルが慌てる。

「うち自慢のシェフの飯は、美味いから止まらんのよ。腹減ってるしな。足りなきゃ何か調達してこようぜ」

「帰ったらいくらでも作るんで、少し自重してください」

 その様子を、やれやれといった表情でカルザスは眺め、セオドアの横に座る。

「本当にいいワインだ」と老学者は呟く。「ターナ様の気遣いが沁みる。自分の好みなんてすっかり忘れてたよ。お前、よく覚えてたな」

「これでも商人だからな。船長にも言われてるんだ。顧客の好き嫌いはよく覚えておけってな」

「たまにはジョシュアもまともなこと言うじゃねえか」

「やけに丸くなっちまったな。余生は好々爺路線か?」

「ワシだって、自分の気持ちに戸惑ってるんだ。全部捨てたはずなのに、まだ好奇心が残っているとは想像もしなかった」

「いいんじゃねえの。歳なんか、関係ないしな」

「まあでも、ありがとうよ。おめえには感謝しなきゃな。老い先は長くはねえだろうが、面白いことになりそうだ」

 セオドアはグラスを傾ける。熟成した赤い液体が、灯りの中で静かに揺れていた。

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